種子島の西之表にある赤尾木城跡を紹介します。
赤尾木城跡の通り。
右が榕城小学校、左が榕城中学校です。
榕城小学校の校門(裏門)。
赤尾木城は、1624年に内城(榕城中学校)からこの地に移り、その後250年間種子島氏の居城でした。
城跡の石垣が残っています。
居城にはアコウの木がたくさんあったので、赤尾木城と呼ばれました。
榕城小学校の校庭に、当時のアコウの木が1本だけ残っています。
ちなみに、榕はアコウ。
榕城中学校の脇にある赤尾木城跡の碑。
階段を上がったところに、種子島時尭(ときたか)の像があります。
種子島時尭の像。
鉄砲伝来のときの島主で、その時16歳でした。
ポルトガル人から鉄砲2丁を2000両で購入し、刀鍛冶の矢板金兵衛に命じて国産化に成功しました。
若い島主の好奇心が、日本の歴史を変えたといっていいでしょう。
時尭公が見下ろすところにある種子島開発総合センター。南蛮船の形を模したものです。
別名鉄砲博物館で、多くの火縄銃などが展示されています。
城跡の周辺には、当時のままの小路が残っています。
赤尾木城跡の通り。
右が榕城小学校、左が榕城中学校です。
榕城小学校の校門(裏門)。
赤尾木城は、1624年に内城(榕城中学校)からこの地に移り、その後250年間種子島氏の居城でした。
城跡の石垣が残っています。
居城にはアコウの木がたくさんあったので、赤尾木城と呼ばれました。
榕城小学校の校庭に、当時のアコウの木が1本だけ残っています。
ちなみに、榕はアコウ。
榕城中学校の脇にある赤尾木城跡の碑。
階段を上がったところに、種子島時尭(ときたか)の像があります。
種子島時尭の像。
鉄砲伝来のときの島主で、その時16歳でした。
ポルトガル人から鉄砲2丁を2000両で購入し、刀鍛冶の矢板金兵衛に命じて国産化に成功しました。
若い島主の好奇心が、日本の歴史を変えたといっていいでしょう。
時尭公が見下ろすところにある種子島開発総合センター。南蛮船の形を模したものです。
別名鉄砲博物館で、多くの火縄銃などが展示されています。
城跡の周辺には、当時のままの小路が残っています。