軸となる価値観なき人間の末路:旧いキャリア観への執着、コスパ・タイパ志向、エコノミック・アニマル

2023-10-15 16:24:16 | 感想など
 
 
 
 
 
 
 
 
うーむ、今の社会においてはまさにこれが必要だよな。「いい学校、いい会社、いい家庭」というレールは幻想だ、なんて言葉はもはや手垢がついて耳タコですらあるのに、じゃあそういうエスカレーターが通用しない、しにくい世の中でどうモノを知り、生きていくかを試行錯誤するような仕組みは全く整えられていないんだよな~(ちなみに先に述べたレールの件は古くからある話だ。例えば、1967年の映画「卒業」のOPにおいて、ダスティン・ホフマンが緊張した面持ちで、時に周囲へ心許なさそうに目を向けながらオートフォークに乗っている姿が描かれているように)。
 
 
いや、全部与えられるなんて論外だけどさ、じゃあよく言われる「ケーキ屋さん」とか「プロ野球選手」という夢に関して、どれだけキャリアの話がされているんだろうか?その年収や労働環境etcがあるわけだけど、そのぼんやりとした将来像に対して実態を知る機会を一体いつ、どこで、どのように与えられることになっているんだろうか?
 
 
もちろん、この「与えられる」ってのが受け身だという批判はもっともだ。自分から調べ、その仕事に就いている人に会ったり職場にいったりして実態を知るよう積極的に行動すべきだ、と。ご高説ごもっとなんだが、ここで質問したいのは、そうおっしゃるあなたは、もしくはあなたの周囲の人間は、そのように行動してきただろうか?ということだ。
 
 
少なくとも私の周囲の人間では見たことがない。薄ぼんやりとした景色の中で、明確に将来像を結ばないまま、ゆえに何となく高校に行き、場合によっては大学に行き、その中で自分が今やっていることと関係あるようなないような業種を複数ピックアップし、そこへ就活をして・・・という人間が大半なのではないだろうか(そしてこの流れを、よく考えもせずに「大人になること」などと嘯いているわけだ)?
 
 
ともあれ、本来は社会の流動性が高まっているのに未だ教育は狭いキャリア観を「与える」ものから脱却できず、親子とも「与えられる」ものという観念で積極的に幅広く調査し試行錯誤するマインドを持てない結果どうなるか・・・?
 
 
不安ばかりが増大し、より神経症的に「安定」を求めるようになる。大学の入学式や卒業式はおろか、会社説明会や入社式なんかにも親が顔を出すようになった時代だ。そのように親子の癒着が進み、親が先回り、先回り、先回りでそのリスク回避に汲々とした結果、「ゼロリスク信仰」が醸成され、チャレンジよりも人と同じ行動を行うことを優先するようになる。
 
 
でもショックニアの親のように、実際は親の側もその子供よりは長く生きているというだけで、語れても自分の経験+α程度であり、データを提示して考えさせることはしないしできない。キャリアアドバイザーでもない以上それが当然なのだが、その親による不安ゆえの先回りが、子供の試行錯誤の機会を奪った上に、現実と齟齬のある仕事観の植えつけからミスマッチを生じさせ、破綻を生みやすくなる。ここまでお膳立てがされた状態で、複雑な実社会に出て少し批判に晒されれば、ノイズ耐性の低さによってちょっとした躓きが大きな壁となり、一気に逃避や停止の原因となる・・・まあこのショックニアはさすがにそんな最後とはならず、ビターな現実を踏まえた上でなおどう生きるか、という話になるのだが。
 
 
とまああれこれ書いてきたのだけれども、この「柱を失ったがゆえの不安神経症的なしがみつき」は、程度の差こそあれ、社会のそこかしこに見られるように思える。
 
 
恋愛や結婚などの人間関係にさえ求められるコスパ・タイパの話。あるいはコスパ・タイパとも大きく関わるファスト教養の話・・・そこでは、「コスパ・タイパが大事」とは言われるが、むしろ「柱になるものが何もないから、もはやわかりやすく数値化できるそれくらいしか重視できるものがない」が正しいんじゃないのか?つまり、価値の柱がなければ、数値化された金銭や時間ばかりで物事を図るようになるのは当然ということである(これは「男は女に奢るべき」≒パパ活的思考という主張の背景にも関わってくる)。
 
 
じゃあそれは若い世代だけの問題なのか?私はそうは思わない。
 
 
 
 
 
 
これは「ジャニーズ問題をなぜ大手マスメディアがこぞって隠蔽したのか?」という話の中で、「要するに問題化することとお金を天秤にかけて、お金を優先したのではないか」ということが指摘されている。
 
 
ここではジャニーズ事務所の行ってきた情緒的紐帯を作り出すことで相手と自分の境界線を曖昧にして批判をしにくくする構造を作った(そういう生存戦略だった)、といった要素が捨象されているので単純化されすぎな嫌いはあるが、ともあれ問題の本質の一端を突いているように私は思う。
 
 
ここから「拝金主義」といった言葉を連想するかもしれないが、少し違うのではないか。思えば、高度経済成長期の日本に対しては、「エコノミックアニマル」=日本人は経済的利益を追求する動物みたいな連中だ、という評価もなされていた。その時代については、明治からの近代化に伴う愛国教育と、先の大戦の惨敗による巨大な空白、そしてそれを埋め合わせするように経済成長を求めて焼け跡で必死に働いたという状況だったが、ジャパンアズナンバーワンと言われ、経済ナショナリズムが満たされたのち、ほどなくしてバブルが崩壊し、その後は失われた30年の中薄ぼんやりとした不安の中を生きることになった。
 
 
こういった状況の中で、新しい価値の創出に失敗し、それを試行錯誤するための営為さえ先が見えず、経済衰退と少子高齢化の上に共同体解体と価値観多様化による共通前提の消失によってもはや安心できる土台=共通性も失われていっている。
 
 
そうする中で、三島風に言えば「空っぽの日本」=軸を持たない日本の性質が前景化した結果、もはや埃を被ったキャリア観にしがみつくしかない親であったり、もはや金銭ぐらいしか基準にできない大手マスメディア職員であったり、コスパ・タイパしか行動基準にできない人々を多数生み出している、ということなのではないだろうか(だからそれはいささか神経症的であるだけでなく、お金を得られたからといってそのまま幸福度が右肩上がりな訳でもなく、「こんなはずじゃなかった」となるわけだが。こうして、前に紹介したストア派の話などにつながってくる)。
 
 
このような見立てにある程度の妥当性があるならば、冒頭で挙げられたキャリア観も、ゼロリスク世代も、ファスト教養も、拝金主義も、セクショナリズムも、「長いものには巻かれろ」的思考も、おおむね似た背景から出てきており、それは一朝一夕のものではなく、ゆえに若い世代だけの話でも責任でもないのはもちろん、短期的・全体的に変化させることは極めて難しいと言えるのである(まあその喜劇的側面は、いまだにオリンピックとか万博みたいなお祭りをやりゃあ何か空気を一変できるみたいな政治屋どもの発想にも見て取れるわけだが。つまり「被支配者層の問題だけではない」という点も指摘しておきたい)。
 
 
あ、ちなみにここまで書いて「日本人は一神教的な観念がないから『世間』を拠り所にせざるをえず、しかもその『世間』がもはや機能不全だから日本社会がどんどん機能不全になっているのは当たり前じゃね」と考えた人は多分妥当だが、とはいえそれで一神教とかそれに類するイデオロギーを今から注入するなんて無理ゲーだし、それをやったらやったでまた別の巨大な問題が発生するので採るべき方策ではない(これがよく「出羽守」が勘違いしていることで、それぞれの国の施策は各々背景があってなされているのであり、日本にいきなり移植はできないし、またそもそもその政策における問題も当然起こっているわけで、それをどう手当てすることもセットで吟味しないと全く意味がないのである。それがわからない人には、「令和版王莽」とでも名付けておくとよいのではないかなw)。
 
 
よってせいぜいできることは、これまでのケーススタディからなるシステム構築(組織構成)の工夫であり、その意味で旧日本軍やジャニーズ、大手マスメディア、ビッグモーターなどの失敗は大変参考になると言える。また逆に言えば、旧日本軍があれだけやらかしたにもかかわらず、令和の世になってもなお似たようなやらかしが頻発している(しかもそれが外圧じゃねーと変わらない)この社会って本当学習能力ねーなーと思う次第である。
 
 
以上。

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