「さよなら絶望先生」の第一集で、「不法入校・難民少女」の関内・マリア・太郎は「コノ国ノヒトタチ ミナトテモヤサシイ」と言いつつ、いくつかの例の中で「中身ノナイ歌デモ涙シテクレル」と述べている。
この指摘が正しいとすれば、どうしてそういう現象が起こるのだろうか?思うにそれは、視聴者が歌や歌詞を聴きこむというより、「感動したい」という願望に突き動かされて曲を聴いているからである(※)。だからとにかく感動したい彼らは、(おそらくしばしば無自覚に)その願望に基いて共感と「感情移入」を行い、中身がなくても勝手に「行間」を埋めてくれるというわけだ。
以上のことより、共感や「感情移入」を前提とする人間達を上手く操れば、中身ノナイ歌でも金を使わせることができるだろう。
※
この「感動したい」傾向については、以前紹介した『カーニヴァル化する社会』や「kanonを斬る」を参照してほしい。またしばしば見られるのだが、(必然性とかは論じずに)「救いがあればよかったのに」という作品の感想もこの傾向の表れと言ってよいだろう(救い≒感動。終わりよければ全てよし?)。
なお、この傾向を単に冷笑したいわけではなく、むしろもっと深く考えるべきだと思っている。その理由については「安易な救いと過剰な期待」を参照のこと。また確定ではないが、モンスターペアレンツなどについて言及する際この問題にも触れる予定である。
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