ザンジバーランドの怪人

2012-02-05 18:38:21 | 生活

自らが極私的な見方をする人間は、他人の言葉についても同じような受け取り方しかできないものだ。そう、「退屈な、あまりに退屈な」で書いた話を忘年会にいた人間への個人攻撃などと解釈するように。あるいは「統一的な自己」という認識に縛られている人は、単純にこのブログを本音(深層)とみなし、実際の私の振る舞いを建前(表層)とみなすだろう。つまり、両方とも素だとは考えもつかないし、ましてや会話によるコミュニケーションと文章によるコミュニケーションの(与える)効果の差異で表現内容を使い分けるといった機能主義的な発想などしない、というわけだ。

 

そういう短絡的な思考は様々な(というかほとんどの)場所で見てきたが、それにしても、「年末遊戯」や「ヒトラー最期の12日間」あるいは「沙耶の唄」などで繰り返し書いていることだが、ただ外側から嘲笑する(=ベタなデタッチメント)でもなく、しかし情念に埋没する(=ベタなコミットメント)でもない、そのような距離感をもって事に対さずに、一体何がわかるというのだろうか?構造的必然や戦略性(意図)を理解しなければ、嘲笑だろうが埋没だろうが、状況が変わればただそれに呑み込まれて終わるように思えるのだが。「嘲笑の淵源」で書いた極限状況での振る舞いとそれに対する無理解、あるいは「ソウルイーター」や「鞠也に首ったけ」で書いた善意によるノイズ排除と逆説的な効果・・・その全てに繋がっている。

 

ところで、今述べた態度はリチャード・ローティーのリベラルアイロニズムと親和性が高い(前に書いた「オールレンジグリーン」には、そういう志向も含まれている。もっとも、俺は彼のごとく「想像力」なるものには信頼を寄せず、ゆえにシステム構築=制度設計の方に可能性を見出すのだけど。「共感」「沙耶の唄」に関する諸々の記事を参照)。彼は『偶然性・アイロニー・連帯』の中でアイロニストを「自分にとって最も重要な信念や欲求の偶然性に直面する類の人物」と定義している。それは、自分が客観性のあるものと信じていた事柄が、全くの主観・願望の産物に過ぎず、相手と共有不可能なのは不思議でも何でもないことに気づかされた人間のことを指す。その辺については高校時代の「嘲笑の淵源」の中で詳しく触れるが、前掲の「嘲笑の淵源」で書いた「実際付き合ってみていいヤツらであることと、抽象的な問題への無理解に関する苛立ち、そのどちらか一方で認識を塗りつぶすな」という話も一部で繋がってくるであろう。

 

まあしかしねえ、おいどんはまだ未熟じゃけん、あまりのわからなさ(思考停止)に時折イラっとすることがあり、つい「キム・ギドク」みたいな記事を書いてしまうんだわな(賢明な読者処刑、もとい諸兄はすでにお気づきと思うが、文中の「平和主義者の青年」の代表格は日本である)。まあ以下の草稿でも、そういう苛立ちというか嘲笑がストレートにブラックな感じで出ております(ちなみに、ブログを始めたばかりの頃は「下手糞外交地獄逝」のような政治を扱った記事も書いてたが、途中でアホらしくなってやめたんだっけかw)。多数の人の死が悲劇であることには同意するとしても、震災を巡る事の顛末まで含めてみると、1001回目のコミックショーにしか俺には見えない。それを一大事(「御一新」ですか?w)みたいに言われてもねえ。「え、そんなことも理解せずに今まで生きてたの?」「じゃあ今の危機感もただの雰囲気っつーかノリだけでしょ?」と思わず皮肉を込めて言ってしまいたくなりますわ、すわすわ。

 

〈草稿〉
悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て
此大をはからむとす。ホレーショの哲學竟に何等の
オーソリチィーを價するものぞ。萬有の
眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の
不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀は
大なる樂觀に一致するを。

これは華厳の滝で自殺した藤村操の有名な「巖頭之感」である。厭世観

女にフラれて・・・

この解釈が正しいとしたら、自慰識の問題を世界の問題へと短絡する「セカイ系」そのものだ。

その受け取られ方も含めて。世界認識が自らの・・・と不即不離であることと(戒めるべきこと)、このように短絡されることを同一視するべきではない。

「ロマン主義的」と言うかもしれないが、そもそもロマン主義は不可能性の志向。世界が不可解で他者という怪物が・・・なんてのはむしろ前提(フラグメント)だ。

先の震災を自らの体調不良と結びつけた御仁がいたそうだが、それも同類。

ともあれ、「セカイ系」的思考の嚆矢?としてみなすことができる。実は大正のテロリズムも同様の。それはまた別の機会に。もちろん特殊日本とは言わない。「罪と罰」のラスコーリニコフとかね。

 

さて話は変わるが、年末に忘年会をしていた時、こんなやり取りがあった。

ブログの記事「すごいよね」。言いにくそう。

「通り魔とかやりそうって?」とニヤニヤしつつ。想定の範囲内すぎて。

大震災と放射能問題でさえ変わらないこの国が、そんな行為で変わると思うほどにバカじゃないつもりだがw

まずいとか新しい環境とか言っても、全部「ノリ」。「ノリ」で生きる村人がシステムの複雑化した社会でそのまま振舞うとどういう事態になるか。

報道の問題を指摘。倫理感をまだ言ってる。アホか。クロスオーナーシップ(システム)の問題が解決しなきゃそれが合理的な振る舞いなんだからな。だから変わるわけねーじゃん。倫理?ムラ社会だったら外のことは関係ねーよ。

TPPでも「開国」とか言ってて、「オー、ユー、アー、フール」と失笑するしかない。まあこれはマスコミの大本営発表の文言。

小泉の構造改革。日本的なやり方がまずいからそれをぶっ壊せ(バブル時のジャパンアズナンバーワンっていうバカ騒ぎと根っこは同じ)。規制緩和して競争、デフレ。デフレになりそうな時にデフレになる政策をかました世にも稀な国家となった。なぜこんな頓珍漢なことがまかり通るのか?「気分」だからだ。そして今回。原発とか閉鎖性がまずいという「気分」になった。日本が一つにという「気分」になった(地方に行きゃわかるが、こんなん欺瞞以外の何物でもないが)。で、「開国」というフレーズ。気分を活用する。まあもっとも、単に語感とか趣味でやっているという、大衆操作以前のサル並発想である可能性も捨てきれないのだがねw

 

まあ何も変わらんね。「精神主義という名の病」。合目的的な振る舞いができない。そういう・・・への捧げ物。言ったら言ったで、「閉鎖性がまずい」という「ノリ」が生まれて今度は「開国」というワードにコロっと騙される。そういう「ノリ」をやめー言うとんのや。ホンマつける薬がないわ。

というか、凶悪犯罪をもし俺がやったらこのブログがどういう扱われ方になるかじゃ容易に想像できる。いや、あまりに簡単すぎて退屈で退屈すぎて書いてこなかった。

他人を見下す孤独な・・・一人で行動することが多く。はいはいw

山岡士郎のなく頃に」でネタにしたもの。変わらなさと自慰識の短絡。あと全体性を考える人間の滑稽さは、「この道、わが旅・・・」で(後に「解釈の多様性」でも言及)。あるいは「ムーたち」の規理野視組。「嘲笑の淵源」で両者が並立すること。

それでも先のように考えるなら、その人に俺は失笑を通り越して憐れみすら覚えるよ。そしてその凡庸さが、俺には退屈で、とても退屈でしょうがない。そういや岡崎京子の作品に「退屈が大好き」ってあったな。

その退屈さからテロリズムに走ることはあるかもねwと言って、こっちの方にだけ反応するミニマム脳味噌とかいるんだろうーなーきっと。ああ退屈。

じゃあ退屈でかなわんから俺もう寝るわ。

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