なぜ芸能人の整形はネタになりうるのかと考えてみると、二つの理由があるように思える。一つは嘲笑、もう一つは不快感だ。idolであることを暴く快感と暴かれた不快感と言い換えてもいいだろう。これについて少し書いてみたい。
まず不快感について。
整形そのものへの生理的嫌悪感が関係しているのかもしれないが、それにしてもブラウン管を通してしか関係しない人々の顔の来歴にどうして不快感を抱けるのか理解できない。結局見えるものが全てではないのか?
あるいは、騙された感じがして不快になるのかもしれない(例えば食品ラベルの偽造のようにだ。もっとも、これは自分たちの口に入ると言う点で直接的であり、同一視できないが)。しかし、before-afterという視点で考えてみると、整形前-整形後には違和を唱えても、成長前-成長後(成長して美人になる)に違和を唱える発言を聞いたことがない(「昔はAV女優で…」といった過去の暴露的なものがそれにあたるのかもしれないが)。それは自然だから問題ない、と反論がくるかもしれない。じゃあ化粧しているのはいいのかと聞けば、化粧を否定する人間はいないと思われる(これだけだとわかり辛いなら、髪とかボーボーの方がいいわけ?と尋ねよう)。俺たちが見ているのは、そもそもが虚像でしかないのだ。「作り物な感じがして不快」という反論もこれで論破できるだろう。さらに、化粧は「努力しているから…」といった苦し紛れの発言があるかもしれないが、それを言ったら整形もどんだけ高い金とリスクを払っているのか、という話だ。
要するに、以上で取り上げた不快感のあり方、及びそれに対する反論への再反論の内容はどこかおかしい。「でも不快感は拭えないんだから」と人は言うかもしれない。なるほどそれを否定する権利は私にはない。だが、このことだけは言える。すなわち、「ではその不快感の源泉は何なのか?」と。
さて、次に嘲笑のほうだ。先ほど私はそれを「暴く快感」と表現したが、それは身体的な部分(主に顔)だけでなく精神的なものも含まれているように思われる。精神的とはどういうことか。整形して理想的な身体を得たいということはすなわち、現在の身体に劣等感を持っているに他ならない。整形の事実を暴き立てることは、その劣等感を明るみに出すことができ、それによって対象を引きずり下ろせるがゆえに快感を生じるのではないだろうか。
タレントとかの内面の重要性がよくわからん俺にとって、そういった精神性もまた今ひとつ理解できないところがある。いやあるいは、持ち上げられている存在を貶める、というより広い意味での悦楽に則っているのだろうか?その点については、次回考えてみたいと思う。
まず不快感について。
整形そのものへの生理的嫌悪感が関係しているのかもしれないが、それにしてもブラウン管を通してしか関係しない人々の顔の来歴にどうして不快感を抱けるのか理解できない。結局見えるものが全てではないのか?
あるいは、騙された感じがして不快になるのかもしれない(例えば食品ラベルの偽造のようにだ。もっとも、これは自分たちの口に入ると言う点で直接的であり、同一視できないが)。しかし、before-afterという視点で考えてみると、整形前-整形後には違和を唱えても、成長前-成長後(成長して美人になる)に違和を唱える発言を聞いたことがない(「昔はAV女優で…」といった過去の暴露的なものがそれにあたるのかもしれないが)。それは自然だから問題ない、と反論がくるかもしれない。じゃあ化粧しているのはいいのかと聞けば、化粧を否定する人間はいないと思われる(これだけだとわかり辛いなら、髪とかボーボーの方がいいわけ?と尋ねよう)。俺たちが見ているのは、そもそもが虚像でしかないのだ。「作り物な感じがして不快」という反論もこれで論破できるだろう。さらに、化粧は「努力しているから…」といった苦し紛れの発言があるかもしれないが、それを言ったら整形もどんだけ高い金とリスクを払っているのか、という話だ。
要するに、以上で取り上げた不快感のあり方、及びそれに対する反論への再反論の内容はどこかおかしい。「でも不快感は拭えないんだから」と人は言うかもしれない。なるほどそれを否定する権利は私にはない。だが、このことだけは言える。すなわち、「ではその不快感の源泉は何なのか?」と。
さて、次に嘲笑のほうだ。先ほど私はそれを「暴く快感」と表現したが、それは身体的な部分(主に顔)だけでなく精神的なものも含まれているように思われる。精神的とはどういうことか。整形して理想的な身体を得たいということはすなわち、現在の身体に劣等感を持っているに他ならない。整形の事実を暴き立てることは、その劣等感を明るみに出すことができ、それによって対象を引きずり下ろせるがゆえに快感を生じるのではないだろうか。
タレントとかの内面の重要性がよくわからん俺にとって、そういった精神性もまた今ひとつ理解できないところがある。いやあるいは、持ち上げられている存在を貶める、というより広い意味での悦楽に則っているのだろうか?その点については、次回考えてみたいと思う。
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