「芸能人の整形がネタにされる理由」の続編。芸能人関連では該当するものが思いつかないので、高校時代に習った偉人たちとその実像を知ったときの反応について、自分の経験を書いてみることにする。
もうだいぶ前の話だが、高校時代に習ったソクラテスが美少年の好きな同性愛者だと知った時、私は思わず笑った。また、貧困の中で作品を残し若くして死んだとされる石川啄木が、遊廓通いで借金を重ねていたことを知ってこれまた笑わずにはいられなかった(「ローマ字日記」)。
この笑いの源泉には何があったのだろうか?単に下ネタとしておもしろかったのか?その要素もゼロではないだろうが、おそらくは隠蔽、つまりそういった側面を切り捨てつつ偉人として祭り上げるような行為への嘲笑だったと推測される。社会規範、倫理に収斂されることを初めから運命付けられたものに一体何の意味がある?あえて表現するならば、それらは作品と言うよりはむしろ単なる「確認行為の記録」に過ぎない。どうせ救われるに決まっている物語と同じように、それらは唾棄すべきものである。思想や作品をそのようなものに貶めながら、一方で称揚している学校教育の精神性は嘲笑せずにはいられない…
少し解釈しすぎの感はあるが、当時の笑いの理由はおおよそこんなところだろう(もっとも、じゃあ性癖や犯罪暦などを赤裸々に併記すればそれでいいのか?といった点を考えなかったあたり、当時の嘲笑主義の根深さが窺えるが)。思うに、あるべき姿というのは偉人の像を盲目的に信じる事ではなく、また隠蔽された部分を暴いてただ貶めることでもない。その両方を知った上でどう考えるか、ではないだろうか。
ところで、そこには前回述べたような引きずり下ろしの精神は作用していなかったのだろうか?その要素がゼロだったとは言えない。しかしながら、別にそのことで彼らの思想や作品を評価するような愚を犯さなかったのも確かである(実際には、全く関連の本などを読んでなかったので判断できなかっただけだが)。
思想や作品に関しては、思想家・作家の人となり(内面)を知ることが有益であることもしばしばで、ゆえにそれを求めるのも理解できる。しかしながら芸能人やグラビアアイドルなどに関してはどうだろうか?なるほど俳優であれば、その人の経験や内面が演技などに生きることもあるだろうが、それを知る必要があるとは思えない。思想家や作家の言葉を適切に理解するためには作品外の文脈を知っていた方がよい。しかし、彼(女)の内面を知ることが演技力の理解に繋がるのか私には疑問である。いや実のところ、独断と偏見を承知で言わせてもらうと、俳優の演技力を支えているものを知るためにその私生活に迫る、というような話は今まで見てきた限り存在しない。つまり、芸能人の内面を知りたいという欲求の根源はそこにはないのだ。では結局、私生活を覗き見したいだけか。
まあもっとも、そういう欲求をメディアの側も存分に利用しているのは確かだ。それもそのはずで、対象を演技力や美しさでしか判断しないのなら、すぐに取って代わられてしまう恐れがある。だから、技量だけでなく対象の内面への愛着をも湧かせるように仕向けることが必要なのだ。すると何のことはない、需要と供給はしっかりと一致しているではないか。あとは、それをネタにして距離を取っているつもりの人間をも含めた共犯関係が、未来永劫破綻せずに続いていくことを心より願って病まない。
(参考1)
「イチローのインタビューは愛想がなくて嫌だ」と私の父親が言った時、その感性は(何となくわかるけど)理解できないと思った。別に彼は愛想を振りまくためにテレビに映っているんじゃなくて、優秀な選手としてテレビに映ってるんでしょうが、というわけで。もっとも、これは大学時代に先輩の家で「イチローは下らないインタビューに辟易しているが、試合展開の本質をついたいい質問のは熱心に答える」みたいな記事を読んだことも影響している可能性はあるが。
(参考2)
高校生か大学生の時だったと思うが、テレビで昔麻薬で捕まった俳優が出演していて母親が「そういう履歴を持っているのにテレビに出ているのが嫌だ」みたいなことを言ったとき、「演技だけじゃなくそんなところまで要求されるなんて大変だねえ」という嫌味を言ったことがある。
(参考3)
「やっぱり馬鹿」的な結論に終わってしまった。とはいえ昔から注目を浴びる人間の私生活を覗きたいという希求は存在しているわけで、このままではもったいない。もっと勉強してから再挑戦だな。
もうだいぶ前の話だが、高校時代に習ったソクラテスが美少年の好きな同性愛者だと知った時、私は思わず笑った。また、貧困の中で作品を残し若くして死んだとされる石川啄木が、遊廓通いで借金を重ねていたことを知ってこれまた笑わずにはいられなかった(「ローマ字日記」)。
この笑いの源泉には何があったのだろうか?単に下ネタとしておもしろかったのか?その要素もゼロではないだろうが、おそらくは隠蔽、つまりそういった側面を切り捨てつつ偉人として祭り上げるような行為への嘲笑だったと推測される。社会規範、倫理に収斂されることを初めから運命付けられたものに一体何の意味がある?あえて表現するならば、それらは作品と言うよりはむしろ単なる「確認行為の記録」に過ぎない。どうせ救われるに決まっている物語と同じように、それらは唾棄すべきものである。思想や作品をそのようなものに貶めながら、一方で称揚している学校教育の精神性は嘲笑せずにはいられない…
少し解釈しすぎの感はあるが、当時の笑いの理由はおおよそこんなところだろう(もっとも、じゃあ性癖や犯罪暦などを赤裸々に併記すればそれでいいのか?といった点を考えなかったあたり、当時の嘲笑主義の根深さが窺えるが)。思うに、あるべき姿というのは偉人の像を盲目的に信じる事ではなく、また隠蔽された部分を暴いてただ貶めることでもない。その両方を知った上でどう考えるか、ではないだろうか。
ところで、そこには前回述べたような引きずり下ろしの精神は作用していなかったのだろうか?その要素がゼロだったとは言えない。しかしながら、別にそのことで彼らの思想や作品を評価するような愚を犯さなかったのも確かである(実際には、全く関連の本などを読んでなかったので判断できなかっただけだが)。
思想や作品に関しては、思想家・作家の人となり(内面)を知ることが有益であることもしばしばで、ゆえにそれを求めるのも理解できる。しかしながら芸能人やグラビアアイドルなどに関してはどうだろうか?なるほど俳優であれば、その人の経験や内面が演技などに生きることもあるだろうが、それを知る必要があるとは思えない。思想家や作家の言葉を適切に理解するためには作品外の文脈を知っていた方がよい。しかし、彼(女)の内面を知ることが演技力の理解に繋がるのか私には疑問である。いや実のところ、独断と偏見を承知で言わせてもらうと、俳優の演技力を支えているものを知るためにその私生活に迫る、というような話は今まで見てきた限り存在しない。つまり、芸能人の内面を知りたいという欲求の根源はそこにはないのだ。では結局、私生活を覗き見したいだけか。
まあもっとも、そういう欲求をメディアの側も存分に利用しているのは確かだ。それもそのはずで、対象を演技力や美しさでしか判断しないのなら、すぐに取って代わられてしまう恐れがある。だから、技量だけでなく対象の内面への愛着をも湧かせるように仕向けることが必要なのだ。すると何のことはない、需要と供給はしっかりと一致しているではないか。あとは、それをネタにして距離を取っているつもりの人間をも含めた共犯関係が、未来永劫破綻せずに続いていくことを心より願って病まない。
(参考1)
「イチローのインタビューは愛想がなくて嫌だ」と私の父親が言った時、その感性は(何となくわかるけど)理解できないと思った。別に彼は愛想を振りまくためにテレビに映っているんじゃなくて、優秀な選手としてテレビに映ってるんでしょうが、というわけで。もっとも、これは大学時代に先輩の家で「イチローは下らないインタビューに辟易しているが、試合展開の本質をついたいい質問のは熱心に答える」みたいな記事を読んだことも影響している可能性はあるが。
(参考2)
高校生か大学生の時だったと思うが、テレビで昔麻薬で捕まった俳優が出演していて母親が「そういう履歴を持っているのにテレビに出ているのが嫌だ」みたいなことを言ったとき、「演技だけじゃなくそんなところまで要求されるなんて大変だねえ」という嫌味を言ったことがある。
(参考3)
「やっぱり馬鹿」的な結論に終わってしまった。とはいえ昔から注目を浴びる人間の私生活を覗きたいという希求は存在しているわけで、このままではもったいない。もっと勉強してから再挑戦だな。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます