「1933年の葬儀場で起きた忌まわしい事件」と聞けば、100年も前のことだからそんな無知や迷信に基づいた愚行がなされたのも当然と、今とは連続性がないように思われるかもしれない。しかしながら、昨今一部で見られる奇妙な「自然」重視と、おそらくそれに並行する極端に人工物を忌避する傾向は、そういった切断の認識を否定するものであると思う・・・
と書いたところで、その具体例として件の「殺人マフィン」から始めて疑似科学やらオーガニック製品への信仰、反ワクチン、反医療などを挙げていこうとしたが、どうも単なる「啓蒙」みたいなテイストになって、上手くニュアンスが伝わらない文章だと感じ始めてお蔵入り寸前になったところ、以下の動画を補助線に提示してみることにした。
ここでは「身体性などを駆使した先人の知恵と、文明の利器の活用は相反するものではない」という事例が述べられている。それに重ねるようにして言えば、科学万能主義的に「テック最高!」とか「テックが発達すれば人間は幸福になる」などと考えるのは全く馬鹿げているのと同じくらい、人工物を忌避する形で自然=善のようにみなす思考様式もまた、愚の骨頂だということになる。
両者は水と油のように見えるが、思うにその根底は同じなのではないか。というのも、前者は技術の発達を思考停止的に喜び(高度に発達した技術は魔法と区別がつかなくなる→『七十二文字』)、後者はそれにより己の「本来性」が侵食されることの恐怖から病的に離脱を図るものだからだ。そして後者においては、「私たちが『自然』だと考えているものの大半は、それを自分たちの手で快適なように加工しつくしたものに過ぎない」という発想がしばしば欠落しているのだが、それは皮肉なことに、人間が剥き出しの自然から遠ざけられたことによって、その危険性を忘却したことが原因なのではないか、と私は思う(それはあたかも、武士という存在が世から消えたことによって、その姿が偶像化・理想化されて語られるのにも似た現象である)。
例えば飲み水について、そのような人たちは「水道水よりも、できれば天然の水がよい」と発想するかもしれない。しかし、少し考えてみればわかることだが、「天然の水」というのものは川であれ池であれ病原菌や寄生虫などの巣窟であり、到底そのまま飲めたものではないケースが多い。つまり、「天然の水」と言った時に、ミネラルウォーターのようなものしかそもそも想定していない時点で、すでに近代化・産業化された社会に思考が侵食されきっていると言えるのである(これについて、映画「首」に関連して述べた、複雑な歴史の多面的理解、あるいは人間の重層的理解とは真逆の態度と言える)。
この話がいささか伝わりにくいならば、登山用に整備された山を「自然」と短絡して「山とは人間が安全に登れるものだ」と錯覚したり、度重なる水害の対策として人工的に水系が変えられた川を何らの疑いもなく「自然」とみなすような思考様式を取り上げてもよいかもしれない。例えば前者なら、戦前の八甲田山雪中行軍遭難事件を見ればその教訓は十分に伝わるだろうし、後者なら利根川を思い浮べることができる。すなわち、私たち人間は自然を膨大に作り変えることで安寧の日常を謳歌しているにすぎず、そのことを忘れて「人間の利益のために活用できる存在に過ぎない」と侮れば、容易にその命を大量に奪っていくのである(ちなみにこの話は、リスボン地震が神罰という発想を相対化し、科学革命にも影響を与えた件を書いた「災害、神罰、科学革命」、あるいは枕崎台風が戦争に神風という自己に都合がよい妄想を期待した人間たちの愚かさを扱った「『神風』という妄想、『神罰』という幻想」などでも掘り下げている)。
とはいえ、このような思考に陥ることは、人間の抜きがたい性質だろう。なぜなら、それを免れるためには、常に自分の今いる世界の成り立ちを批判的に理解・評価する眼差しを持っている必要があり、そのような人間は稀だからである。
ゆえに、科学によって得られた精華をただ学ぶのではなく、例えばクーンの『科学革命の構造』などを通じ、そこにどのような迂回や誤解、あるいはそれにまつわる犠牲が生じたのかも付随して見ていくことで、今ある科学の知見がたまさかのものに過ぎないという認識と同時に、それに拠って立つことの重要性もまた痛感することになるのではないか、と述べつつこの稿を終えたい。
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