「言葉の自動機械」とレッテル貼り、そしてそれがはびこる背景を話したので、今回は「アンチプロパガンダ」(になりうるもの)の一例について述べたい。
それはつい先日店頭に並んだ一ノ瀬俊也『特攻隊員の現実(リアル)』である。彼の著作としては、『皇軍兵士の日常生活』、『銃後の社会史ー戦死者と遺族』などがあり、戦争ではあっても戦略論や外交史ではなく、戦場のリアル、銃後のリアルを記述しようとするところに特徴がある(ただ、『戦艦大和講義―私たちにとって太平洋戦争とは何か』のように、実態とは必ずしもそぐわない諸言説の分析から我々の歴史認識のあり方を浮き彫りにするというアプローチを採った著作も存在する)。今回の『特攻隊員の現実』もその一つと言えるだろう。
つい昨日買ったばかりでまだ序章すら読み終わっていないが(笑)、それでも拙速を重視してこの記事を書こうと思った理由は、ここ最近の話(冒頭で述べた「言葉の自動機械」やレッテル貼り)に具体性を持たせたいと思っているからだ。
特攻(隊員)に関してはその強制性や有効性を巡って様々なことが言われてきた。しかし少なくとも確実なのは、「国のために散った英霊たち」として単純化などできない、ということだ。そこには美談を広報に利用しようとする政府の意図があり、また特攻隊員の反応についても様々なグラデーションがある。そこを表面的な美談に乗っかって「悲劇の若者たち」という具合にレッテルを貼るのは、真に特攻や戦争の実態を振り返ろうとする姿勢とは言えまい(そしてそのような姿勢は、元来の保守とは全くかけ離れた態度とも言える)。
また、本書の最後でも取り上げられているが、「特攻崩れ」のこともある。私がそれを知ったのは仲代達也主演の「月光の夏」(劇場公開は私が中学生の1993年だが、それを見たのはおそらく高校生に入ってから)だが、要するに戦時中持て囃された特攻隊員が一転、敗戦後にはむしろ白眼視されたのである。この事はベトナム戦争の復員兵にまつわる言説を連想するとよいが、そうなった要因は、特攻を推進した上層部たちがだんまりを決め込んだこと、また政府のプロパガンダに乗せられた人々が、掌を返して戦中は「神」にさえ見倣わされた特攻隊員を危険人物として迫害したことにある(このような世相の急変について言及した著作は『空気の研究』など数多いが、このブログでは「戦争という名のファシズムから平和という名のファシズムへ」を参照)。
もちろん、当時はGHQの検閲もあったので、全くのフリーハンドで発言はできないというのは事実だろう。しかし、特攻を賛美はしなくても、特攻隊員をその「犠牲者」として社会に包摂することぐらいは可能だったのではないか?少なくともそれを白眼視するというのはどうにも解せないものがある(それが特高とか憲兵なら、自分たちを居丈高に弾圧してきた者たちが権力を失ったので仕返しがしたい、という理由でわかる気もするが)。どうにもここには、現在で言えば有名人を神輿として担いで何かあれば集団で引きずり下ろすような行為と同じ醜さを感じるのは私だけだろうか?
以上あれこれ述べてきたが、要するに一次史料を用いて複雑な実態を知り考察するという行為は、いかに我々がバイアスまみれかということを突き付けてくる(ちなみに毒書会で取り上げているのは3冊とも認識論や世界観にまつわる本なのに対し、私個人としては基本的にファクトベースの知識を増やす本を読むようにしているのは、そのようなアプローチを重視しているからだ)。このことは、別にそう大げさな話ではない。
例えば私は「この世界の片隅に」を見た後にいくつかの記事を書いているが、その一つが「喪失、絆、偶然性」である。主な内容としてはラバウルで負傷した父方の祖父、二度の偶然で戦争を生き延びた母方の祖父の話で、多少大げさに表現すればこれらは「オーラルヒストリー」と言える。そこで最も伝えたかったのは、戦争で負傷した(人生が大きく狂った)→反戦・反政府になるとは限らず、むしろ戦争体験にそこまで大きな忌避感はなくても、いかにも戦後民主主義の教科書のような発言をするケースが見られる、という点に他ならない。つまり、戦争や兵隊、戦後と言っても極めて様々な現実があり、その複雑で多様な実態について考えるヒントは日常に無数にある、ということだ(それを集積・体系化しているか否かの違いだけだ)。
このような個人的経験からしても、特攻(隊員)にまつわる言説には様々な違和感を覚えていたので、この『特攻隊員の現実』を読み、その実態を考える一助としたい。
※蛇足
以下、あとがきからの引用(あとがき先に読んだんかい!という突っ込みは置いといてw)。
特攻のように誰かがやらねばならないが、できれば誰もやりたくない“仕事”が現れたとしよう。昭和の昔なら国民平等に負担すべしとなっただろうが、令和のネット世論をみていると「そんな仕事は税金を払ってない者がやるのが当然」などと真顔で言いだす人が、政治家も含めて多そうだ。
これについては全く同感であるが、以下その理由を説明したい。
この話について、最近の例として思い出されるのは、先の台風の際に、避難所にホームレスが入れないことを当然とする言説の数々だ。これを始めとして、今のネットの言説を見ると、ある時はリバタリアンとして弱者を切り捨て、ある時は突如リベラルのようになって権利を主張するカメレオンマンが溢れているようだ。そのさもしく浅ましい様からすれば、愛国心が重要とか言いながら、いざとなれば「自分がいの一番に死にに行く」とは間違ってもならず、「下」に理由をつけて丸投げするに違いないと私は「確信」している(仮に自ら死地に赴くのであれば、その言説に賛同はしなくても、一本の筋は通った人間として、ある程度の敬意は払うだろうが)。
たとえば生活保護の不正受給とパナマ文書に対する反応が対照的なのはその一例だが、真に国家のためと言うのならば、再配分の機能に多大な影響を及ぼすのは、額面的にも間違いなく後者である(前者についても、組織ぐるみの不正を防止するなどの動きはもちろん必要だが)。
にもかかわらず後者への反応が鈍いのは、国家や社会にとって生活保護=弱者が邪魔であるという趣旨の言説を振りまきながら、その実は国家や社会のあり方を真剣に考えるのではなく、単に勝ち馬に乗りたいだけであり、不正受給は自分たちの「下」の人間が上手い事をやっているのが許せない、というルサンチマンが根源にあると考えるのが妥当だろう(つまり必ずしも理屈に基づくものではないので、生活保護については正論を言っても納得されるかどうかは別問題、という面倒な要素を持っているのだが。まあだから貧困≒治安の悪化という自らに跳ね返るリスクヘッジとして話さないと人は動かじ・・・ということで始めから多くの人は「損得マシーン」であるという前提で私は話すのだが)。
このように、「国家を騙りながら、その実国家にしがみつきたいだけ」がほの見える言説が跳梁跋扈しているのを観察する時、著者のあとがきで書いたことはまさしくその通りであろうと思う次第である。
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