昨日は宮台真司の動画で言及された「言葉の自動機械」について、ホイジンガの「遊び」と対比しながら共通前提の崩壊という記事を書きましたよと(ちなみにホイジンガの「遊び」に関して言い忘れたが、それは「情報と分析:それがどんな『ゲーム』なのかを知る」で書いたような「ゲーム」と連なるものがある)。ちなみに宮台は「言葉の自動機械」の他に「法の奴隷」という言い方もしているが、これも全く同じ流れと考えることができる。要は、社会の複雑化・多様化・流動性の上昇・共同体の崩壊といった諸現象の中で、孤立化・不安化した人間が神経症的(ホイジンガの用語を使えば「遊び」の対概念である「まじめ」)に秩序・ルールに固執するという構造であり、それがかつてのドイツではナチスとその台頭という形で表出し、またかつての日本では昭和維新など諸々のテロールとして現出したと書いたのが「ルサンチマンのハレーション:昭和維新、そして現代」であった。
先に述べた「不安」・「神経症的」という内実に関する補助線として、たとえば『我が闘争』を取り上げてみよう。ふと読めばそれは一つの体系として成立している思われるかもしれないが、実のところは、体系化のために不都合な事実を様々切り捨てつつ、世界をパッチワークのように繋ぎ合わせた代物であり、『我が妄想』とでも改題したほうがいいんじゃないかと言いたくなる代物である。その典型はユダヤ人=共産主義者というレッテル貼りだ。
(これは前にも書いたけれども)なるほどトロツキーやベルンシュタイン、あるいはロシアで活動したナロードニキを始め共産主義・社会主義について多くのユダヤ人の名前を挙げることはできるが、それと同時にロスチャイルドやロックフェラーといった巨頭についても知っているわけで、前掲書の記述(およびヒトラーの諸々の発言)はこういった事実を無視した牽強付会な物言いと断じる他ない(ちなみに私がシェイクスピア作品を嫌いな理由として「アンチプロパガンダ」の話をしたのもこういったことに連なる)。
このようにファクトベースでその虚妄の霧を晴らしていくのは重要な行為だが、一方で「このような虚妄になぜ人はコミットするのか」という視点も必要不可欠である。そう考えた時、世界の複雑さ・多様さに関する反動として世界を単純化・図式化し、さらには我々がどちらへ向かうべきかを「断固」・「決然」といったスローガンとともに指し示す者に、不安な人々が魅了され動員されるのはまさしく必然として理解されるだろう(これは陰謀論の魔力もつながるし、一昔前の「小泉旋風」=「自民党をぶっ壊す」もそういった現象の一つである)。そして不安に駆られるレイヤーの典型が、没落に怯える(もしくはすでに没落して「こんなはずではなかった」とルサンチマンを貯める)中間層であった、というのがフロムやアドルノの研究が明らかにしたことであった。つまり、不安に駆られた人々が、わかりやすい世界像を提示する者に対し、それが正しいか間違っているかの検証もなおざりにして、その世界像に没頭して過激化していくわけで、それが冒頭で述べた「不安」・「神経症的」というワードの正体である(ちなみに彼らの研究において、コミットする層の中心が若年層ではなく壮年以上であることも言及されている)。
なお、今述べた「中間層の支持」というのは、話題となった弁護士大量懲戒請求に加わった人々の年齢層や職業からも現代日本においてある程度傍証できる(あえてわかりやすく言えば、その主体は10代や20代のアンダークラスと呼ばれるような収入の人々では全くない)。さらに言えば、これから日本が経済的に衰退していく可能性は極めて高いため、ますます没落中間層は増え、痛みを伴う中長期的な改革を目指すのではなく、「誰のせいでこうなった!?」という短期的な鬱憤晴らしが今以上に横行することになるだろう。
こう見てくると、繰り返しになるが「上級国民」の件が正しい・間違っている以前に、それがここまで問題視される理由を考え、手当てを模索するべきであろう。そして私が提案するのは教育改革や情報の開示という形での「攻勢防御」であるが、それが嫌(というか実態としてできない)のであれば、まあ昭和維新の再来というかジム=ロジャーズが言うような事態を今から覚悟し、武装するか国外逃亡するかを考えておくのがよろしかろう、と述べつつこの稿を終えたい。
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