うーむ、霧に包まれた華厳の滝は幻想的だなあ・・・
ほなもう下に行って真正面から拝むとしますかね。
入場料を払いエレベーターに乗る。
・・・しばらくお待ちください。
・・・・・・もうしばらくお待ちください。
キチャー(・∀・)!!
怒怒怒怒怒怒怒っ・・・という感じの轟音があたりにこだましており、自然の猛威を否が応でも体感させられる素敵な空間となっておりマス。
ちなみにかなり下の方に来た印象を受けると思うが、
Wow!結構まだ高い所に展望所はあって、ダイブしたら確実に逝ける距離ですな。
滝もスゲーが、周囲の岩肌も芸術的なんだよなあ。荒々しさと美しさの融合体というかね。
まあこの様を見ていたら、「曰く不可解」と詠じてその身を投じる行為も理解せずにはいられない・・・と思っていたのか(突然の武露吏)!
まあ彼が「不可解」とみなしたのはこの自然なのか、はたまた女心なのかは知らんが、ともあれ「不可解」は始まりであって終わりではない。なまじ賢明な人間というものは、賢明であるがゆえに、この世を体系的に理解可能なものであるはずだと思い込む。そして宗教やらイデオロギーといったものを打ち立て、その範疇に合わない存在をノイズとして否定・排除していくのである(まあファシズムはその典型例だが、最近ではむしろポリコレがそのような性質を強く持つようになってきている)。
然るに、この世界が体系的なものとして構築されているという証明は一体誰がなしたというのか?確かに、とある現象がとある形式によって説明可能で、それが反復的に観察できる以上は、それを「公理」として設定するのに抵抗する気は毛頭ない(まあそれですら、科学の歴史を見れば、「公理」とみなされていたものが後に反証されたり、あるいはより汎用性の高い仕方で説明しなおされるケースなどいくらでもあるのだが)。
しかし例えば、仮にとある自然現象が降水量と相関することを見抜いたからといって、それは即ち天候全てが体系的・論理的に説明できることは全く意味しないし、今後もできるようになる保障は全くない。ましてや、そのことによって何らかのものを超越的なものとみなし、(ナイロメーターとファラオではないが)やれ現人神だのと祭り上げるのは愚の骨頂と言えるだろう。
とするなら、その不可解で掴みどころのない世界に生まれ落ちた以上、それを所与のものとし、思う存分探究して楽しむのがよろしい。もちろん、今この世界で生きながら非常に苦しい生活を強いられている人間に、そのような要求をするのは全く馬鹿げているとは思う。しかしなぜ、そのような困窮の中にもいなかった藤村某がそこで命を絶たねばならなかったのか?言い換えれば、「何不愉其生?」と私には思えるのである(まあその根底にあるのは、「意味あれかし」という願望と、それが満たされない絶望なのだろう)。
なんてことを考えてたら、突如として俗物的なあれやこれやが出てきて思わず爆笑。いや家康の自由帳ってさあwww
あ~なんかアホくさくなってきたワ。まああれこれ偉そうに考えてみたけど、結局は勝手に生きて勝手に死ぬ以外ないんで、「それもまた人生」って話なんですがね(・∀・)
そんなことを考えつつ、最後に滝の様子をもう一度目に焼き付け、その場を後にしたのであった。
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