『中世の秋』と『ホモ・ルーデンス』に絡めて「文化史こそ歴史である」という記事を書いた同日、マル激でまさしくそれにつながる話がなされていた(正確にはそれが動画として掲載されていた)ことを知って驚いた。
「コスモロジーと『遊び』:動物裁判、シロアリ供養塔」でも書いたようにまだ続きがあるため、ここでくだくだしく動画の感想を述べることはしないが、非常に示唆的な部分に関して一つだけ触れておくこととしたい。
動画の中で、「他人に迷惑をかけなければ何をしてもよいか?」というアンケートの話が出てくる(なお、窪田順生の元記事はこちら)。
こういう問いでアンケートを取ると、日本ではそれに賛成する割合が他国と比べて圧倒的に低い。「他人に迷惑をかけなければ何をしてもよい」というのは、共生の作法として一つの重要な態度なのだが、こういうマインドが日本人の過半数には欠落しているということである。
ともあれ、こういうエートスがあるために、抑圧しあう構造が生まれ、フラストレーション・ルサンチマンが溜まる。だから何か問題が起きても、じゃあそれをどうしようか考えるのではなく、「俺・私も我慢しているのにふざけるな!」と負の斥力が働き、苦境にいる人はもちろん問題も放置される。
かかる状況を踏まえれば、日本という国が治安もよければ食糧事情もよいのに、どうして幸福度が低いのかも自明だろう。人は、常にこのような無形の圧力に怯えつつ、同時に人にもこのような無形の圧力をかけながら生きているのだから(まあホイジンガに絡めるなら阿部勤也の「世間」の話になるし、山本七平の「空気」を思い出すのも有効だろう)。
このように考えると、袋叩きの病理がどこから生まれるのかということだけでなく、日本人がなぜ外圧によってしか変われないと言わるのかもよくわかる。だって、自助努力をせずに問題ある仕組みをそのまま我慢して続けるから、悪意はなくても自浄作用が働かないんだから(ちなみにここには、丸山真男の言う「作為の契機の不在」も大きく関係していると思われる。すなわち、今自分がいる社会・システムをテンポラリーなものではなく、エターナルなものだと勝手に考え、変える=悪だと思ってしまうというわけだ。前例主義や「出る杭は打たれる」という言葉はその典型だろう)。
ちなみに、やや先取りして書いてしまうが、私はこういった要素ゆえにAI時代の日本社会は今よりさらに暗いものになっていると予測する。これから10年で日本はさらに衰退の道を転げ落ちるだろう(あたかも日本の苦境から目を逸らすように中国などの衰退の兆候を楽しげに吹聴するアホもいるが、そこへの輸出量は減るし、そこからの観光客=インバウンド収入も減るのだから、大きなダメージを受けるという発想をどうしてしないのだろうか。そしてこの件については大抵「日本は内需の割合が大きい国だから」という主張も出てくるのだが、じゃあその内需ってのが人口減少でHELLもとい減るんだから、死亡する要素しかねーだろという話である。ちなみに、これらに関する議論はどうも正常性バイアスが絡んでいるんじゃないかと思われる節があり、内容の正しさを吟味するだけでなく、受け取る側の願望に留意する必要があるのではないか)。
であるならば、病気の際と同じで原因を究明して適切な治療を必死に行わなければならないはずだが、先のエートスによってむしろ他者へ忍耐を強いるマインドが強化され、解決は先送りされる(自分も痛みを我慢しているんだから、お前も病院ガ―とか治療ガ―とか言ってないで我慢しろ!という意味不明な主張。無痛分娩の普及が進まない要因みたいやな・・・)。つまり、問題の深刻さが増すごとに、ますます解決へ向かうベクトルは歪められやすくなるわけである。
というわけで、日本社会はそのゲームのあり方を変える契機を作れず、AI社会に適応できるはずもなく、長時間労働から解放されて「遊び」の要素を増やして人生を豊かに過ごせるどころか、労働や社会からパージされた「無敵」の人を今以上に量産して、さらに生きづらい社会が現出していることだろう(そして、売りの一つであった治安が悪化し賃金も伸びない=途上国と差が小さくなり続けている日本社会に、これからもわざわざ外国人労働者が来るか、という話である)。
こうなると、投資家のジム=ロジャーズではないが「海外に逃げるかAKを持つか」というのは全くのところ荒唐無稽な話でも何でもない(前にも書いたが、中国並の監視社会にしたところで、始めから死ぬつもりで人を殺しに来る連中を止める手立てはない。脳にチップでも埋め込まない限りはね)。実際、私が(少なくとも能力のある)若い人に話すなら、「いつでも日本は出れるようにしておくといい。海外=ユートピアでないのは言うまでもないが、沈みゆく船を唯一の住処と誤認させられて死んでいくのは不幸だからね。しかし、外の世界を見てもなお日本に残って何かをなしたいと思うなら、その意気は買いたい」とでも言うだろう。
ちなみに、ジム=ロジャーズの言には出てこないが、もう一つの方法(?)は「みんなでVR」である。早い話、生きづらさや不全感を解消できる世界を全国民レベルでシステム的に構築することで、崩壊はせずに社会が維持されるという寸法である。私はもう日本社会の自浄作用に(個人や小さな共同体レベルを除けば)全く期待していないので、これが(理想ではなく)最も現実的だと考えるがどうだろうか?
で、こういう理解を踏まえて今回の動画の映画レビューを見れば、また違った印象を受けるのではないだろうかと書きつつ、この稿を終えることとしたい(「リチャード・ジュエル」に絡めてコスモロジーの話を書こうと思ったが、それはまた別の機会に)。
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