monomanische Fragmente

2010-11-26 19:20:47 | 感想など

先日「同性愛への嫌悪?~マン・ヘイティング~」の記事に対して「ていうかここまで妄想できるってことは…気持ち悪い」というコメントをいただいた。全くのところ同感である。遅くとも高校時代以来、自分を「普通」だとも「まとも」だとも見倣わしたことは一度もないが、それにしても、頼まれたわけでもなく金にもならない記事をこれほどの速度と分量で書くほどの自己顕示欲、あるいは偏執性を持っているとまではさすがに予想していなかった。

 

もう少し別の角度から話そう。老婆心ながら言えば、作品と同じでこのブログも様々な視点で見ることができるが、そのうちの一つとして「そもそもこれだけの分量をこれだけの速度で書いていること自体がイカれている」というものがある。それと紹介文の「のんびりまったりと色んなことを書いていくブログ」という表現のズレを笑うことも可能だし、もしくはあまりにズレた自己認識として嘲笑することもできるだろう(ついでに言っておくと、そういう狙い・効果について書いてしまったので、近いうちに紹介文を変更する予定)。

 

個人的には、あまりに狂いすぎててオモシロイので、DEATH NOTEの伏線に使う意図もあって「パラノイア」という記事を作成してみたり、また「記事の分量と凶行の相姦関係」では記事の分量そのものを一つのネタとして扱ったりしてきた(とはいえ、その話は少々悪趣味すぎたのかアクセス数がかなり低下したがw)。あ、ちなみにだが。こうして自分をネタにすることによって、先回りして批判を封じたりだとか、慣れ合いの共犯関係に持ちこめるという効果ありますね。マケなさい(日本に風刺が根付かない、というねとすたシリアス2の指摘も興味深い)。 ちなみに、本当はカテゴリーなど全て排除して混沌の海の中に叩きこんでみたいとか思うのだが、それだとさすがに不便すぎるので妥協している次第。まあ筒井康隆の「」や「虚人たち」と比べるのはおこがましいが、一つ一つの事象の説明や評価以外にも、全体としての形式・表現方法も鑑賞の材料となりうるわけでありおりはべりいまそかり。

 

なーんてパターン化ばかりやってるからすぐに「飽きる」んだよな・・・もっとも、固有性の欺瞞(or僭称)に関しては『ムーたち』第二巻の「無二機」にも出てくるのと読んでみてくださいよと。まあそれはいいとして、前掲の「同性愛への嫌悪?」を見て不快なモノとの向き合い方について少し考えるところがあった。これは偶像崇拝のそれとも繋がるので、次回取り上げることにしたい。

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