「保守」の名に値せぬもの:年末大掃除其の10

2017-01-07 12:18:27 | 生活

あけおめー。て今頃かい!はいどうもカラヤン伯です。どうして1月も6日なって今年も終わりなんて記事がアップされているのか・・・その辺は各自ちょいと考えてみてくださいな。さて、今回は年末大掃除最後の記事であります。

 

これも「『保守』の名に値せぬもの」という題名ですでに完成稿をアップしているが、元々は少しテイストの違う入りで書かれた記事であった。「成ル談義」でも書いたような内容からは、私がリベラル(あるいは革新)の側にいる人間だと思われる人もいるだろう。しかしそれなら、そもそも「保守」とは何なのか?という話で、それを考えることなしにレッテル張りや二項思考をしても不毛以外のなにものでもないだろう(たとえば私は「誰しも平等であるがゆえに性的マイノリティにも等しく権利を保障すべき」などとは書かず、「自己拡張に役立つから属性広げればいいじゃん!」と書く。その理由は、権利などという「おためごかし」で、反発する人間たちを説得できるとは全く思えないからだ。まあ真剣に書くなら、言葉による納得などを能天気に期待するのではなく、関係性の構築という端的な事実を積み上げるために、そもそも対話の機会を増やすとかもっと地道な話になるんだけどね・・・)。ちなみになぜ完成稿まで上げたこの草稿をわざわざ今頃アップするかと言うと、今述べたような重層性や多層性が、「この世界の片隅に」という作品を語る上で極めて重要だと思うからである。

 

 

【原文】

性的オリエンの記事。なるほど私は革新とはいかないまでも、保守ではない。しかし保守の面も多々ある。歴史の教訓。過去の叡智の重要性を思う。津波てんでんこの件。「アルプスの出来事」から生まれうる愚かしさ。逃げるべき。子供を守ろうとしないなんて、などという賢しらな批判。両方死ぬか片方死ぬか。あなたが、一人だけ生き残るくらいなら自分も死にたいと思うのは自由だが、他人にその行動を要求する資格も権利もない(てゆうか、それって他者に対して、子供のためなら死ねって言っているのと同じだと理解してるのかね?割りきれない気持ちがあるのならともかく、なんの屈託もなくそれを言えてしまうのは頭の中がおめでたすぎると言わざるを得ない)。

 

ではなぜそういう記事は書かないのか。今交わされている言説のほとんど全てが、「保守」などではなく、ただの「思い出騙り」にすぎないと見ているからだ。

 

保守とはそもそも何なのか。なぜ昔を大事にするか。そこには人間の賢しらさに対する不信がある。科学技術の件がわかりやすい。医療技術の件。

物事をイノベートし続けていけば薔薇色の未来が待っていると思われた時代。しかしディストピア小説の隆盛を見るまでもなく、それが牧歌的な発想にすぎないことを我々は知っている。ダウンサイジング。サステナビリティといった言葉の登場。

つまり、人間の産み出した技術に乗っ取ってただ推し進めていけば〇なんて誰も思わない。

 

このような発送も保守だ。要するにそれは昔はよかった的な放言を垂れ流すことでもなければ、伝統とやらを墨守することでは全くない。

 

人間の浅はかな知恵に対する戒めがあるからこそ、今の自分の「常識」や「自明」なことに安易に飛び付かず、先人の叡智を参照する。だから過去に目を向けるだけでなく、なぜそれが採用されたのか、その効果、功罪はどのようなものか。そこに真摯に分析の光を当ててこそ、保守の本懐と言える。逆に言えば、歴史を検証しようともせず、せいぜい自分の思い出、経験の範囲であの頃はよかった的にしゃべるのは、保守の基本概念からは(革新のそれとベクトルは違えど)大きく外れていると言わざるを得ない。なぜならそれは、自分の感覚や自明さを疑わない思考態度そのものだからだ。

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