先日の記事において、日本の宗教的帰属意識が言及される際、それはしばしば「脱亜入欧的オリエンタリズム」に彩られていると書いた。すなわち、自身=日本を欧米に比べて遅れた・異なる国として言及しながら、一方でそこにはアジアとの比較が欠落していたり、少なくともそれと同じ目線で自己を評価する意識が希薄ということである。
これは少子化について言及する際にもしばしば立ち現れる。すなわち、欧米との落差を指摘しながら、それゆえ日本は遅れていて少子化が惹起している&問題が解決できない、とするような論法である。
そもそも「欧米」なるものが余りに多様であって、例えばアメリカ・フィンランド・イタリアを同列に語るのが噴飯物であることは論を俟たないが(という意味でも、そこに一種のコンプレックスが見て取れるわけだが)、大前提として先進国は一般的に少子化現象に苦しんでいるのであり、ただ「欧米と違うから問題だ」とするのはあまりに乱暴であろう。
そしてこれまた不思議なことだが、少子化について取り沙汰する時、韓国や中国の状況が比較対象として持ち出されないこともしばしばである。ご存じのように、韓国は出生率が1.0を割っており、非婚を希望する若年層の割合は日本よりも高い。また人口15億に到った中国に関しても(一人っ子政策の長期的影響などがあり)大規模な少子化が起こっており、いよいよ人口減少に転じたとされている(なお、こういった話を元に「だから日本はまだ大丈夫である」といった溜飲下げ的言説が見られるのは問題だろう。隣家の人間がガンに侵されているからといって、自分たちのガンが治るわけではないからだ)。
このように見てくると、
1:少子化=先進国の一般的現象である
2:とはいえ、東アジア圏は相対的にその進みが非常に速い
という傾向を指摘することができるのではないだろうか。
このような見立てが正しいとすれば、なぜ東アジアでは少子化が顕著なのだろうか?という問いが当然出てくるだろう。さらに言えば、「G7」といったカテゴリーからするなら日本が最も少子化が顕著なはずで、韓国がそれを抜く勢いを示しているのは解せないところだろう(まあこういう見方はヨーロッパにおける南欧という反証があるので、そもそも「先進国=成熟社会化が進めば進むほど少子化は比例して進むというのは単純すぎる見解だ」と考えるべきだが。それに個人GDPという基準では日本は韓国にすでに抜かれている)。
このように考えた際に想定されるのは「儒教社会」という共通項だろう。これをもう少し詳しく言えば、(A)科挙的競争社会・(B)男尊女卑傾向が相対的に強い(根強く残っている)、という特徴に繋げることができるように思う。
(A)の科挙的社会が一体どうして少子化と関係するのか?これは超学歴社会であり、それゆえ「上層へ移動するための受験熱が非常に強い」と言い換えることができる。こう話すと日本の受験を想起される方もいるかもしれないし、それは必ずしも間違っていないが、今や韓国や中国の方が圧倒的な学歴社会化と過当競争が行われていることを想起したい(例えば韓国の大学進学率はすでに日本を大きく抜いている)。そこでは、大学に行くのは当たり前で、韓国ならSKYと言われるような大学に行かなければ、あるいはそこから財閥企業に入れなければ、ある程度豊かな生活を送ることは難しい、という状況となっている(そして来る推薦入試に向けた準備として、小さい頃から長時間習い事などをさせられることも珍しくない)。
これに最適化するためには、子供を産んだら相応のお金・時間を投資をしないと、老後の世話をしてもらうどころか、社会からはじき出された子供の面倒を自分が生涯に渡ってみなければならないかもしれない。そうなると当然、子供の出産=膨大なコスト&リスクということになり(今の社会は出産する前から何でも可視化されてしまっている)、産み控えが生じるのは必然的なことと言える(怠惰とか愚行とかではなく、一種の合理的適応であることに注意を喚起したい。だから精神主義を持ち出したり「啓蒙」などしても、全くと言っていいほど無効なのである)。
ここでは、そもそも科挙を受験するには書物を買い与えたり家庭教師をつけることができるなど豊富な資金が必要であり、科挙官僚がしばしば(中国の宋代などで言えば)「形勢戸」と呼ばれた富裕農民層から排出されたことを想起したい(韓国なら「両班」という特権階級)。そのような動きが階級社会の崩壊によって社会へ広範に普及したことが近代社会、もっと言えば成熟社会の特徴で、だから受験競争が社会現象にまでなるわけである。なお、日本には科挙が根付かなかったことは以前触れたことがあるが、明治以降の「四民平等」と「富国強兵」・「殖産興業」の熱の中で「階層上昇のための学歴獲得」というベクトルが生じ、それがどんどん加速していったのが戦後日本の状況と言えるだろう(ちなみにここで「子供が高学歴で良い会社を目指さなくても他に選択肢はいくらでもある」という意見は間違っていないが、それを自己責任論が猖獗を極め、システム的にレールから外れた瞬間ベリーハードモードが始まる日本において、確率論的に説得力を持って他者を説得できるか、という問題である)。
というわけで、科挙的競争社会とそれへの合理的適応が産み控えを必然的なものとすることを書いたが、それなら(B)の男尊女卑的傾向が根強く残っている、というのはどういうことだろうか?またどのように少子化に影響を与えているのだろうか?先に言っておくと、これは「虐げられた立場にいる女性の地位が向上しさえすれば、問題は解決する」などという単純な話ではない。あえて単純化した言葉を提示しておくなら、そこには「非正規雇用の拡大」・「年収800万は『普通』」といった事柄が関連するのだが、かなり長文になってきたのでこれについては次回取り上げることとしたい。
なお、今述べた話も含め、例えば山田昌弘「『経済的に十分な相手でなければ結婚も恋愛もなし』そんな日本で真に”異次元”といえる少子化対策の中身」、荒川和久「男性の2人に1人は子を持たずに生涯を終える...岸田首相は『まもなく日本を襲う過酷な現実』が見えていない」などが参考になるので宜しければどうぞ。
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