藤子・F・不二雄と言えば最も有名なのは長寿アニメでもある「ドラえもん」だろう。
ただ、そこからイメージされるものを元に原作の漫画版を読めば、アニメ版では抱かない(持ちにくい)シュールさやシニカルさに違和感を覚えるだろう。まして「ミノタウロスの皿」や「女には売るものがある」、「気楽に殺ろうよ」などの短編集を読めば、それまで抱いていた印象というのは多様な側面の一部に過ぎなかったことが理解されるだろうし、さらに「コロリ転げた木の根っ子」がごとき作品を見れば、人間というものをよくよく観察・理解していた人であることも推し量ることができる。
このような多面性に関し、「ホワイト」(表)だの「ブラック」(裏)だのといったレッテルで二面性のように語るのは間違っているように思う。どちらも「藤子氏が対象の中に同時に見出していた多様な可能性の一つ」という意味で等価・パラレルだからである。
わかりにくいと思うので、たとえば「優秀な人」というプロットで考えてみよう。あえて曖昧にしたこの言葉からは、
①典型的な成功譚
②優秀さの秘密
③嫉妬され殺害
④無能な人間に呆れ果てて人類を滅ぼすことにする
②優秀さの秘密
③嫉妬され殺害
④無能な人間に呆れ果てて人類を滅ぼすことにする
など様々な分岐を想定することができる。もう少し説明すると、③は自分の上司や権力者に排除される一般的なものもあれば(スターリンなど歴史あるある)、価値観が変化して「優秀なヤツ」は殺すべしとなった世界を想定するのもある(ポル・ポトなどを想起可能)。ちなみに、④については中二病的なキャラクターが想像されるかもしれないし、それが誤っていると言うつもりもないが、わかりやすい事例として動画を二つ掲載しておくので興味があればどうぞ(まあ事例について正確に言えば、前者は「人間を殺してもよい存在ぐらいにしか見ていない」、後者は「一部の人間が劣っていると勝手に決めつけ絶滅させようとする(という方面に対しては有能)」という表現が適切だが)。
つまりは、ただ「優秀な人」といっても様々な可能性(過去・未来)が想定されるのであり、そのどれを採用するかで話が分岐するというわけだ。然るに①や②しか思いつかないとか、あるいは逆に③や④しか思いつかないのも、(それが精神的な理由であれ思考力的な理由であれ)要するに視野が狭いのであって、それが「ホワイト」とか「ブラック」ということではない。
もう少し別の例えをするなら、肉料理のみ、あるいは魚料理のみしか調理できない人に対し、藤子・F・不二雄は両方を調理でき、かつそのバリエーションが豊富な上に優れている極めて優秀なシェフだった、というところだろう(あるいは二項対立的な表現を避けるなら、さらに山菜などの調理やそれらの組み合わせにも卓越していた、となろうか。ちなみに、私がこの話を書きながら想定する類似の視点・能力を持つ人は筒井康隆である)。
というわけで藤子・F・不二雄の作家性について少し書いてみたが、今回突然これをテーマにしたのは、今まで書いてきた諸々の記事にもリンクするからである。例えば、『夜と霧』でも触れられる、収容所の酷薄な刑吏が同時に家庭では温かい父親でもあったりするという話。あるいは「嘲笑の淵源」でも書いた、極限状況でも日常と同じように振舞えると夢想する人々(正常性バイアス)の話。あるいは最初期に「人間の可能性は負の方向にも無限大」という記事を書いたが、これは皮肉でも露悪趣味でもなく、端的な事実性を示したものであるということ。最近の記事で言えば、「陰キャ」・「陽キャ」カテゴリー(レッテル貼り)のバカバカしさ。あるいは、自らの大切に思う存在が、どうでもいい存在と等確率で死ぬという事実があるが、基本的にそれを正しく理解できないという話(これは「人類の存続に必然性などない」などが当てはまる)。あるいは「フーリエ変換、音楽、人間の数値化」で書いた、「わからないからこそ(世界や人間の可能性を)探究する」という話。あるいは「私を縛る『私』という名の檻」で書いた、「あなたの世界観に合致するためにこの世(否私自身でさえも)が存在しているわけではない」という話etc...
まあそんなわけで、藤子氏の作家性をダシに使わせていただいた、ということである(笑)。ともあれ、藤子・F・不二雄の多様な作品に触れると、その幅の広さと優れた描写力により、今まで自分が世界と思い込んでいたものの根底が揺さぶられる経験をすることになるのではないか、という意味においてもぜひそれらに触れてほしいものだと述べつつこの稿を終えたい。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます