「なるべく小さな幸せと、なるべく小さな不幸せ、なるべくいっぱい集めよう。そんな気持ちわかるでしょ?」
昔の有名な歌にそんなフレーズがあったけど、もし実際にんなこと言うヤツがいたら、自分は「それどういう意味で言ってんの?」と疑いの目で見るだろう(まあ実際に多幸感というか、胡散臭い感じのする言い回しではある)🤔
これは、そういう状況やそれを理想視することを馬鹿げていると思ってる、というシニカルな理由からじゃなく、むしろその尊さについて発言者がどれだけ深く理解しているのかを疑うためだ(いつも言ってるが、私が人を信用せんのはこういう領域においてである)。
ここで彼女たちの生い立ちや「毒親」・「虐待」というものについて詳細に論じることはしない(臨床的類型やそれとの対処法なら水島広子『「毒親」の正体ー精神科医の診察室から』、毒親サバイバーたちの家庭環境や向き合い方をライトに見たいなら漫画『毒親サバイバル』などが読みやすいのでそれらを参照してくだされ。なお、虐待がどのように人間の尊厳とその人生を破壊してしまうかは、前回の記事で中国史の薛生について触れた通りである)。
ただ、動画のコメントを見ていて改めて思うのは、「親と和解すべき」という言説は要注意ということ。そもそも、毒親になる背景は発達障害や依存症、貧困、自身の虐待された経験、あるいはそれらの複合といった具合に様々異なる(加えてパートナーの状態とかも影響)。
だから当たり前のこととして、和解できる場合もあれば、できない場合もある。先の言説は、そういう複雑な現実や、「例外状況」を考慮しないイデオロギー的理解(信仰に近いもの)と言う他ない。
そのような「べき」・「ねばならない」という抑圧は、現実とのギャップを生み出し、さらに自分を苦しめてしまう(できない自分をさらに追い詰めてしまう)だけだ。諦めずに頭の片隅へそっと置いておくぐらいは別にいいとして、それが強迫観念にならないように、上手く付き合いなさいよって話である。
また、今回取り上げた彼女たちを聖人化したりするのは馬鹿げており、我々と同じ過つ人間であることは言うまでもない(まあ息根とめるとかはあまりにも明け透けに色々喋りすぎてて、そんな錯覚するヤツおらんやろがい!て気もするが😀)。まして、理想化した上にそれとズレたからと攻撃を始めるなど、愚の骨頂である(てかそういう振る舞いこそ、毒親の典型パターンの一つですよと)。
願わくは、彼女たちに小さな幸せと小さな不幸せがあらんことを。
え、「小さな不幸せ」も願うのかって??「全てが上手くいく」なんて都合のいい未来像を措定するから、かえってままならん現実に不幸を強く感じるようになってまうんやで~とか言ったのはゴータマ先生だったかねえ。多少のゴタゴタやバチバチもありながら、それでも最終的に穏やかな日々が送れたらええやんけ😀!とまあそういうことである。
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