古典教育、伊勢物語、都と辺境:当時の貴族の世界観と精神性を理解するには

2024-05-30 11:28:19 | ことば関連

 

 

古典教育の不要論が強く主張される理由に関し、「道具主義的に教わるものは、役に立つと実感されない限り、否定されるのが当然である」に続き、「再び古典教育不要論に関して」「『ガラスの小びん』、古典教育、公益性」を書いてきた。そこで述べたのは、グローバリゼーションによって経済合理化と国民意識の解体が進むことにより、そもそも古典教育が目的として掲げているものに説得力を感じにくい人が増えていること、そして古典教育のあり方が本来の目的を忘れてお題目化しているのではないか?ということである。

 

後者は要するに、「生徒に古典文法を暗記させ、正しい現代語訳をさせる」という行為が、手段ではなく目的化しているという話だが、「むしろそれこそが目的なのだ」という見解及びそれへの批判(そのような主張はなぜ説得力を持たないのか)については次回取り上げるとして、ここでは古典教育の「目的」及びそれに関する現状の古典教育の問題点について私見を述べてみたいと思う。

 

さて、冒頭の動画でも言及され、実際よく耳にするのは、古典を学ぶことの意義とは、「その時代の人間=他者の考え方を知る」ことであり、特に古文については「日本人の精神性を理解する」というものだとされる。この見解に立脚するなら、古文の学習や古文の解釈ができるというのは、あくまで目的のための一手段に過ぎないと言う事ができよう。では古文の授業は、一般的にそれを成し遂げるような展開がなされているだろうか?『伊勢物語』の「東下り」を例に考えてみよう。

 

「東下り」とは、平安時代の主人公が、ごく少数の人とともに京都から東国へ旅する話である。そこにはしばしば京に対する郷愁の念と見知らぬ土地への不安が見られ、和歌とそれに対する反応も、それに基づいている。

 

さて、この文章を読むことで「その時代の人間の精神性を理解する」のが目的なら、それを逐語的に和訳することで十分かと言えば、全くそうではないだろう。

 

まずそもそも、この箇所からは主人公が何者かよくわからない。旅の目的もよくわからない。「東」の三河や駿河が今の静岡あたりなのはまあ調べればわかるとして、それを辺鄙とする感覚も今一つ理解できない。

 

地理感覚について、何を馬鹿げたことを言っているのかと思われるかもしれないが、例えばこの「東下り」を学習した高校生当時の自分(ちなみに熊本出身)の認識で言うと、京都と静岡の正確な地理感覚もわからなければ、むしろ静岡は東京とそんなに離れていないことから、「静岡が辺境?うちの方がよっぽどですけどw」ぐらいにしか思わないわけである(もちろんアホの極みだがw)。だから、東国にいてやたら涙している主人公たちの様子を見ても、「あ~、大切な人を残してきてるから心残りなのかねえ」ぐらいには思うが、その地理感覚や世界観がわからないので、その深刻さが全くピンと来ないわけだ。

 

とするなら、この主人公たちの心情(やそれを読でんいる当時の上流階級の人々の認識)を正しく理解しようと思うなら、主人公とされる人物の来歴と、当時の貴族の世界観を知らなければならない。

 

まず前者は、浮名を流した有名貴族の在原業平であろうとされており、彼が都でやらかして、離れた地に行かざるを得なくなった=「都落ち」的な落差があることはどの授業でもなされていることだろう。では次に地理感覚だが、これは伊勢物語だけ見ていても今一つピンと来ないだろうから、例えばもう少し後に成立した『源氏物語』などを参考にするのもよいだろう。

 

そこでは、やはり都で朧月夜とやらかした源氏が須磨に蟄居する話が出てくる。そこで源氏はそのあまりの鄙びた様子に驚きつつも、明石の入道やら明石の御方と出会い新たな人間関係を取り結んでいくわけだが、先に述べた現代熊本人の地理感覚からすると、そもそも京都から明石・須磨=兵庫に行ったぐらいで刑罰的な意味合いがあるのが全くピンと来ない。しかし、そこでの描写からすると、京都の人間にとって、その距離の落差が相当大きなものだったことがひとまず了解されるのである(ちなみに紫式部がこの顛末を描いたのは、在原業平の影響があったともされる)。

 

その他、玉鬘の当て馬として登場しながら、最終的には全くの道化として笑いものにされた近江の君もまた(この対比は源氏と頭中将の政争の行方をも暗示する)、その名前と辺鄙な地への認識の一端を垣間見ることができるだろう(まあ私はしち面倒臭い宮中の人物たちより、このキャラの方がよほど好きなのだけどw)。

 

さらに言えば、『源氏物語』には宇治十帖なる続編が存在するが、そこからわかるのは、現在京都府に含まれる宇治ですら、隠居先で済むような人のあまり訪れない場所だった(と京都の貴族からは認識されていた)ということである。いやそもそもだ。今の銀閣がある東山辺りについても、以前は洛外として厳密には京都に含まれていなかった(まあ東京在住の人間が、板橋区や練馬区、足立区を半ばネタで「別世界」のように語るのを想起してもよいかもしれない)・・・とここまで来て初めて、中央貴族の感覚からすれば、東=静岡が辺境も辺境であり、そこに少ないお供で旅をするという行為が、どれだけ心寂しく、危険なものであったかが多少なりともわかるだろう(それゆえに、「都鳥」の歌を聞いて乾飯がふやけるほど涙を流すことになる、と)。

 

そしてここからさらに発展させれば、いわゆる「坂東武者」とその台頭が中央貴族にとってどれだけインパクトがあったかも理解しやすくなるはずだ。言ってしまえば、到底自分たちが行くところではない「未開の地」からやってきた文化的素養などロクにない連中が、政治の中枢に食い込んでいったわけで、その中から平氏政権、そしてのちには東国に鎌倉幕府が誕生するのはよく知られたところである・・・

 

というわけで、ここまで述べたことで私が伝えたいのは、仮に『伊勢物語』の「東下り」を材料に「当時の人々の精神性を理解する」ことを目的とするなら、当時の日本や当時の貴族の世界観が今の私たちとどれだけ違うかを把握するために最低限これだけの周辺情報が必要ということであり、本文を逐語訳したところで全く足りていないのである。逆に言えば、この「東下り」を教える時に、本文の品詞分解や正しい逐語訳を目的として授業が行われているのであれば、私には手段と目的が転倒しているようにすら見えるのだ(文法や正しい現代語訳を教え、それを定期試験などで確認し、入試に備えさせることが目的化していませんか?て話)。

 

このような意見は「古典の授業というよりはむしろ、地理や歴史を含んだ総合的な学習内容では?」と疑問に思われるかもしれないが、むしろ今の高校の授業や大学入試は「科目横断的な知」が重視されるようになってきており、ゆえに今のような教え方の何が問題なのかむしろお尋ねしたいぐらいである。

 

また、こういった教え方は、時間的制約や教師の知識により実現が難しいという意見は出ると思われるが、それも映像授業の導入であったり、あるいは事前にYou Tubeの動画を見てきてもらうことを課題とするなどで解消は可能だろう。つまり古典教育の目的である「当時の人々の精神性を理解する」という目的を最大限効率化して達成可能性を高める(=効能の最大化の)ためには、教師はあくまで教室管理や質問対応、テストの結果確認といったチューター的な役割を担うようにすべきである、とさえ言いうるのである。この話はシステム的な議論になるので、機会があれば別で扱いたいが、要するにこういったことまで視野に入れることなく、ただ古典教育の重要性を訴え続けるのは、単なる既得権益の維持や、旧体制の思考停止的な存続であるとまで見なされるのではないか(要は単にポジショントークしてるだけなんちゃうんか?)、と述べておきたい。

 

以上。

 

 

 

【補足】

ちなみに今述べた話は、何も古典学習に限った話ではない。例えば以前も取り上げた、昭和歌謡(昭和28年)の「街のサンドイッチマン」で考えてみよう。

 

 

 

 

歌を聞けばわかる通り、歌詞を理解することは何ら難しくはない(まあ「燕尾服」とか「おどけ者」なんて言葉は最近とんと耳にしなくなったのでとっさには受け取りづらいかもしれないが)。

 

ではここで、「この歌は当時のどのような精神性を反映しているのだろうか?」と問われたらどうだろうか?内容的に、おそらく「貧しかった戦後間もない頃の昭和を象徴している」といった連想はできそうだ。しかし周辺情報として、このサンドイッチマンのモデルが、海軍大将っだった高橋三吉の息子であると聞けば、また大きく印象が変わる(深化する)はずだ。つまり、なぜ海軍大将の息子がサンドイッチマンなどやっているのか?という問いが生まれることで、高橋三吉がA級戦犯となったこと、その影響で息子の高橋健二も職を終われ、サンドイッチマンのような職業で糊口をしのがなければならなくなった、という情報に到る。

 

つまりこの歌は、確かにサンドイッチマンの悲哀を歌ったものではあるが、そこには公職追放、つまり戦前→戦後の価値観の変化であったり、かつて栄華を誇った人々の没落といった要素が背景にあるのであり、これが時代の人々の心情とも重なり、流行の一つの要素ともなったのである(「街のサンドイッチマン:それが象徴する時代」。なお、これを先の『伊勢物語』とのアナロジーで述べるなら、高橋健二は在原業平であり、そしてサンドイッチマン=没落した姿は、東=京都から離れた場所への都落ちと重ねることができる)。

 

こういった理解は見田宗介『近代日本の心情の歴史-流行歌の社会心理史』といった研究とも接続するが、重要なことは、繰り返しになるが、ただ書いてある内容を逐語的に理解したところで、そこにある精神性を深く理解するには程遠い、ということに他ならない(流行歌を元に当時の人々の世界観を分析するというのは、「『九段の母』から見る神仏習合の実態と神仏分離の影響度合い」などでも書いたことがある。そこでは、戦中に「九段の母」が流行したことを元に、国家主義の風潮が強まっていた当時でさえも、民衆のシンクレティズム的宗教意識がなお強く残存していたことを強調した)。

 

よって古典教育の目的が真に「古典の学習を通じて当時の人々=他者の思想や精神性を理解すること」であり、その達成に心血を注ぐべしと言うのであれば、周辺情報での補足(作品単体の点的理解ではなく他作品とのアナロジーなど含めた面的理解)が決定的に重要であることを再度強調しておきたい。


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Unknown (ゴルゴン)
2025-02-05 02:16:08
実事求是様

返信ありがとうございます。実事求是様が社会や教育をどのように捉えていらっしゃるかが垣間見える、大変興味深いコメントだと感じました。

今回二つの返信をいただいていますが、私からのコメントをシンプルにするために、最初の一つのみを取り上げる点ご容赦ください。

さて、一つ目のコメントにおいて、実事求是様は「もしも、受験生の負担を減らすなら、古典を廃止して現代文だけを出題するという選択肢もあるはず。それなのになぜ私立大学の経済学部では、古典を出題するのか。その実益は何か。」という問い立てに対し、「経済学部卒業の多くがなる職業である銀行員にとっては、数学的能力よりも、古文で身につくスキルが必要とされている(されてきた)から。」ではないかという考察を提示されました。

この見解に首肯するのは難しい、というのが率直なところです。「あくまでも私の推測であり、粗が目立つことをご了承下さい。」という注意書きもありますが、これは学校教育をどのように捉えるか、また捉えられていると認識しているかに関わってくるので、少し掘り下げたいと思います。


<問題Ⅰ>
まずそもそも、大学側は「学生の就職先で求められるスキルを気にして入試問題を作成していない」ことが挙げられると思います。

大学入試の問題については、「志望者の選抜」という主目的があり、そこには「受験者の中からなるだけ優秀な生徒を選びたい」という点と、「自分たちが求める生徒像に近い存在であるかを吟味したい」という点があると考えられます。前者は例えば英単語や古文文法をどの程度覚え、運用できているかといった点数化しやすい形での学校教育内容の知識の定着を図る行為であり、後者はいわば大学の問題の特性・傾向と言い換えることもできるでしょう。

求める生徒像に適っているかを吟味する、という点においては、慶應義塾大学-経済学部の自由英作文ほどわかりやすいものも無いように思われます。というのもその形式は、あるテーマについて相反する主張をする英文を複数読ませ、どちら側で主張を展開するか選ばせたうえで、英文の内容を具体例として援用しながら、自身の反対意見にも触れつつ主張を展開させる、という条件設定だからです。言うまでもないことですが、これはアカデミックライティングの手法そのものであり、入学にあたり求める素養を生徒が身につけられているか(または身に着けておいてほしい力)を問う、これほど雄弁な問題は少ないだろう、と非常に印象に残った次第です。ちなみに、アカデミックライティングが金融関連の企業で重視されるという話は寡聞にして知らないので、これはあくまで大学に入るにあたって求める力を試す設問と言ってよいと思われます。

少し具体例の話が長くなりましたが、ここで主張したいことを繰り返すと、大学側は受験者に対し、入学前に身に着けていてほしい素養こそ入試問題で問いますが、就職先やそこで求められる人物像まで気にして問題を作成などしていない、ということです。

類例で言うと、文学部であれば古文はもちろん漢文も出題しますが、それは別に漢籍の素養が必要な就職先を想定してはいない、という話でもあります。

また前回の記事で申し上げたように、そもそも心理学部なのに入試で統計がいらないどころか数学では受験ができないとか、あるいは医学部には多くの場合入試で数Ⅲが必須で生物は選択科目だが、むしろ大学の学びや医者になった場合に必要なのは生物であるといったように、「惰性的入試システム」と現実の職業との齟齬はそこかしこに観察されます。このことからも、大学入試のシステムは卒業後の事などさして考えてなどいない、と評価するのが妥当なように思われますがいかがでしょうか>

もちろん、大学は「就職予備校」ではないので、就職に向けてより有利な入試システムに変えることが100%正義だとは思いません。しかし、かかる具合に大学がその溝を埋める気はなさそうなのは留意しておくべきかと思います。


<問題Ⅱ>

もう一つの疑問として、「企業側は(大学での学びはまだしも)大学入試の内容に興味関心があるのか」という点を挙げることができます(もちろん、絶無とまで言うつもりはありませんが)。これは古典教育というよりはむしろ、小熊英二『日本社会のしくみ』あたりで研究されている内容になりますが、以下そのような企業分析に基づいて書いてみたいと思います。

実事求是様のおっしゃる高度経済成長期は特に大企業で終身雇用が行きわたり、言わばメンバーシップ型雇用のシステムが確立してきた時期にあたります。

そしてその中では、各企業は「大学での学びの延長での業務」などというものには期待せず、むしろ新卒で入った社員たちを研修やら飲み会やらといった形で企業文化の中に取り込んでしまい、そこで会社色に染め上げていくというスタイルを取っていました(そのため、単にメンバーを抜ける=裏切り者的レッテルだけでなく、転職というものがそもそもしづらい仕組みとなっている)。

特に事例として挙がっている銀行は、今で言えばみずほや三井住友あたりが特にそうですが、非常に体育会系な社風でもあり、ハードワークや厳しい上下関係というものが求められました。しかしながら、それはあくまで会社主体の研修などによる「通過儀礼」を経て学生⇒新入社員に浸透されていくものであり、そこに大学での学び、ましてや大学入試で培った素養というものが求められたかは、極めて怪しいと感じます。

むしろ、そういう「変なノイズ」は混じっていないが、難関大の入試は突破した優秀な人材を、こちらの都合のよい人間に仕立て上げるシステムを各社が整えていった時代だと言っていいでしょう(ここでは銀行の事例だけ挙げましたが、かつての「鬼十則」などからわかるように電通もそのような社風ですし、あるいは昨今やり玉に挙がっているテレビ局の社風なども、かなりその傾向が強いと言えるのではないでしょうか)。

要するに、理系の専門職ならいざ知らず、文系の営業関連の仕事を担う職種などにおいては、大学で学んだ内容も、大学入試に向けて学習したであろう内容も、「極論どうでもいい」という訳ですね。

より正確に言うと、大学入試での学びではなく、某大学に入学できたという結果(学校歴)が、その人が会社の業務についていくだけの基本スペックを満たしているかを保証する、いわば「足切り」的な材料と見なされていた程度だと思われます(特に高度経済成長期~バブル期あたりは)。

まあこのあたりが、「日本の大学は入るのは難しいが出るのは簡単」とか、「日本は学歴社会ではなく学校歴社会だ」などという評価にも関連してくるわけですが、大学側も企業に入社した先のことなど気にしないし(なぜなら「就職予備校」ではないので)、企業側も大学の学びとの連結など大して期待もなければ興味もない、というのが実態だったのではないでしょうか。


長くなりましたが、以上二つの理由から、経済学部で古文が必須化されてきたことは、企業(特に銀行員)で必要な素養を身に着けることとは無関連である可能性が極めて高いと私は考えます。

以上です。
返信する
Unknown (実事求是)
2025-02-02 14:30:32
続きです。

疑問点Ⅱに挙げて頂いた大学につきましては、一橋大学はまず国立大学であり、法政大・成城大・上智大は私立大学でありますので、それぞれの方向性は異なると思います。

国立大学は受験生からすれば第一志望であり、多くは滑り止めとして私立大学に合格を確保している受験生が受験します。いわば、受験生からすれば、「本当は受かりたいが、落ちたら私立に行けばいいや」となるわけです。つまり、国立大学は、受験生に媚びて入試問題を簡単にしたり、科目数を減らす必要はないわけです。(少なくとも、私立大学を比較してですが・・・。)

そして、私立大学と比較して受験者数が少なく、試験回数も少ない事、また採点にかける教員数も私立大学と比較すれば「余裕」があるわけです。そのような事を考慮すると、国立大学は私立大学と比較すれば、取りたい学生を取るための試験が行えると言えるわけです。そのような状況で、国立大学である一橋は、平安時代の古文ではなく、近代文語文を出題する意図について考えてみます。

まず、一橋大学のアドミッションポリシーには、全ての学部において「グローバル化に対応できる人材」の育成が目指されています。

https://juken.hit-u.ac.jp/admission/admission_policy/

そして、近代文語文の出題意図としては、「いわゆる近代文語文は、近代の日本社会に深く関係しており、当時の知識人が新しい課題にどのように取り組んだかと知る上で重要である。」と記載されています。
https://juken.hit-u.ac.jp/admission/info/files/R6_01_kokugo_ito.pdf

また、上記の出題意図に掲載されている近代とは「明治維新~第二次世界大戦期」であり、「新しい課題」とは、「急速に西洋化が進む中で、日本はどうあるべきか」ということだと思われます。

以上をまとめますと、特に西洋文化が流入した明治時代で盛んに考えられた「急速に西洋化が進む中で、日本はどうあるべきか」という問題は、現在の「グローバル化(西洋化)が進む中で、日本はどうあるべきか」という課題と同一です。

つまり、「グローバル化が進む中で、日本はどうあるべきか」という課題を考えるうえで、それと同様の状況が起こっていた明治時代はどうだったのか。その当時の知識人はどのように考えていたのか。それを知るためには、近代文語文が読めないといけないという論理になります。

また一橋大学は、政治界や産業界におけるリーダーの育成を目指していることからも、そのレベルになるためには、当時の知識人の思考を「正確」に理解しなければならず、そのために、「原文」を読める能力は必須であるとも言えそうです。

そのように考えますと、一橋大学にとって、平安時代の古文は「グローバル化を考える上では役に立たない。」となりそうです。(勿論、共通テストで古典は課してますが、他の国公立大学と異なり、二次試験で、近世以前の古典を課さないのはかなり特徴的だと言えます。)だからこそ、近世文語文に出題が限定されているのではないでしょうか。

そして、一橋大学が設立された目的を見ますと、「世界水準の商業教育を通じて日本の近代化を担い国際的に活躍できる人材を育成すること」であり、それに担った産業人を輩出する事です。当時の国際化の中で、「実用的」なスキルを身に付けた人材が求められてきたのです。

https://www.hit-u.ac.jp/guide/message/200901.html
https://www.hit-u.ac.jp/guide/outline/captains_of_industry.html

おそらく、そのような「実用的なスキル」を求める校風が長く続いてきたからこそ、入試問題も「実用的」な観点から出題されてきて、それが「伝統」となり、また明治時代の知識人の苦悩を現在のグローバル化を考える糧として欲しいという意味でも、近代文語文が出題されているのではないでしょうか。

関東の難関私立においては、文系科目であるが、入試が現代文(小論文)だけの所が多いですね。(慶応・青山・法政)。また、昨今早稲田大学の入試改革を見てますと、2021年度から政治経済学部、2023年度からは教育学部で総合問題が導入(2025年度からは社会科学部も)されています。そして、人間科学部も新たに入試問題を刷新し、国語においては以下のようになるそうです。

早稲田大学 政治経済学部 2024年 総合問題
https://www.waseda.jp/inst/admission/assets/uploads/2024/08/11_2024_ippan_sougou.pdf

早稲田大学 教育学部(教育学科) 2024年 総合問題 
https://www.waseda.jp/inst/admission/assets/uploads/2024/07/15_2024_ippan_C_shakai_sougou.pdf

早稲田大学 社会科学部 総合問題(サンプル)
https://www.waseda.jp/fsss/sss/assets/uploads/2023/04/2025sample.pdf

早稲田大学 人間科学部 国語(サンプル問題)
https://www.waseda.jp/fhum/hum/assets/uploads/2024/04/19_2025_ippan_sample.pdf

早稲田大学のいずれの文の特徴としては、文章にデータやグラフが登場していますし、従来入試で出題されていた評論文と比較すれば、かなり「ロジカル」な文章であると思われます。推測するに、グローバル化の流れの中で、「エビデンスに基づいて主張できるような人材が欲しい。」ということの現れではないでしょうか。いずれの入試も一番の特徴は、古文が出題されていない事です。(実際には、早稲田大学は共通テストを課し、国語は必修ではあります。)

早稲田大学の古文は共通テストよりもはるかに難易度が高いとされていますが、それを出題しないということは、二次試験で優先されるのは、データに基づいた論理的な文章を読解出来る事であり、個人的な感想が主流である古文はエビデンスベーストではないので不要であると判断されたのでしょう。

そのように考えますと関東の難関私大は、近年の社会変化を察知して、総合問題を導入するようになってきています。いわば、「古典」の切り捨てが始まってきているのです。

グローバル・AI社会で活躍しているような企業に就職できるような人材を輩出しなければならず、そのためには「古典」を二次試験で出題している場合ではないという事です。特に難関私立は受験者数が多く、その受験者層のレベルが高いので、暗記主体の古典ではなく、総合問題を出題しても十分に対応できるだろうと判断されたと思われます。

また、難関私大以外の大学においては、古典を課すと受験生が集まらなくなってしまいます。私は受験生を3つのレベルに分類したいと思います。

レベル1 古典も数学も出来ない層
レベル2 古典は出来るが、数学が出来ない層
レベル3 古典も数学も出来る層(総合問題にも対応できる層)

難関私立大学以外の私立大学においては、古典を課すと受験生が集まらなくなります。法政大学につきましては、2006年までは経済学部においても、現古融合問題を出題しておりました。しかし、それ以後は出題しなくなりました。成城大学に置きましては、現代文でありながらも、一題は古典を題材とした評論文であったり、大正・昭和の文語文を出して、その中で文法知識を問う等の問題が2010年まで出題されておりました。しかしどちらの大学も現代文にシフトしました。その理由としては、ゆとり教育が導入され、受験生が変容したことが理由であると推測できます。法政大学は「マーチ」と呼ばれる大学の中では、一番「下」の大学になりますし、成城大学は「マーチ」よりも一ランク下の大学となります。このように考えてみますと、従来はレベル2の受験生が中心であったが、ゆとり教育以後、レベル1寄りの受験生が増加し、その影響を受けたのが、法政大学以下の私立大学であると思われます。だからこそ、国語において入試を現代文に限定したと思われます。(実際に、レベル1の受験生が集まるような私立大学では、国語において現代文に限定している大学も多くあります。)

このように考えますと、私立大学で古典を課していない理由は、難関私立大学は現在社会に対応するためであり、それ以下の大学では、受験生を集めるためであると判断できます。

では、なぜ今までは「古典」が課されているのか。以前の投稿では、古典読解能力が儒教的な日本においては、ビジネススキルである(あった)と述べました。私立大学の卒業生の多くは、上司や顧客に対して理不尽なことを言われることが多々あります。そのような時にロジカルに反論してはいけません。つまり、「現在使わないような言葉をどうして学ばないといけないんだ。」といった疑問を呈するような学生は、私立大学文系の多くが就職するような営業職に向いていません。「よく分からないけど、受験に出題されるから勉強しよう。」といった学生こそが、私立大学文系に求められる(た)学生像だったと言えます。「無意味な事でも上司や顧客の命令なら黙って従う。」能力が求められてきたのです。ですので、古典が「無意味」で「実用性がない」事が、皮肉にも受験生の将来的なビジネススキルを測定できるという「意味」が生み出されたと言えるでしょう。(反対に、社会(特に政治経済)や数学は経済学部の学びに欠かせないので、すぐに意味を見いだせてしまいます。)そして、古典の「無意味」性は、レベル2の学生を獲得するのに、うってつけの手段でした。

また、国語=文学といった風潮も現在よりは強かったのでしょう。国語の入試問題は、おそらく文学部教授が作成していると思われますが、彼らの中には多数の古文研究者が存在します。(反対に漢文研究者は少数であると思われます。)。そのような彼らが問題を作成すれば、自然と古文が国語の入試問題として出題されるのは自明の理であります。そして、高度経済成長期は、古典を入試に課しても志望者数も多く、また古典的な能力がビジネス界でも実生活(文語文を書く世代がまだまだ現役だった時代です。)でも必要だったからこそ、現在と比較したら、多くの受験生が仕方ないとしながらも、古典が入試に出題されていることを受け入れてきたのでしょう。そして、題材の豊富さ、採点のしやすさ、数学よりも難易度が低い事もあって多くの私立大学の文系では、古典が入試で出題されてきたと思われます。そして、それが惰性的に続いた結果、現在ではそれがひずみとして生じているわけです。

しかし、そのような古典を惰性的に出題することは、現在の社会では求められておらず、近年はデータサイエンス学部の新設ラッシュに見られるように、「エビデンスベースト」な人材が求められるようになります。私立大学も次々と「データサイエンス学部」を開設しています。おそらく、旧来通り、古典を出題するような私立大学文系は大きく縮小するでしょう。今は改革の過渡期ですが、予想としましては、「文系の募集人数を減らして、データサイエンス学部にシフトする。」「総合問題を導入して、古典を廃止する。」「推薦入試やAO入試の割合を大幅に増やす。」等によって、私立大学の入試において古典が求められることはますます減少するでしょう。
返信する
Unknown (実事求是)
2025-01-31 20:49:55
ゴルゴンさま

素晴らしい質問ありがとうございます。全ての質問にはとても、お答えすることは今の時点では困難ですので、以下の点について自分なりに思考した結果を述べたいと思います。

「もしも、受験生の負担を減らすなら、古典を廃止して現代文だけを出題するという選択肢もあるはず。それなのになぜ私立大学の経済学部では、古典を出題するのか。その実益は何か。」
という問い(疑問点Ⅱ)に答えていきます
(※ 以下述べる事は、あくまでも私の推測であり、粗が目立つことをご了承下さい。)

結論から申し上げますと、「経済学部卒業の多くがなる職業である銀行員にとっては、数学的能力よりも、古文で身につくスキルが必要とされている(されてきた)から。」となります。

まず、大学は入口において受験生を集める事も重要ですが、同時に出口も重要となるわけです。その出口こそが就職率です。特に大手企業への就職率が高ければ高いほど「良い大学」となります。
そして、それと同様に、卒業生がその企業において経営者にまで昇りつめることは、大学が受験生を集めるにあたり、最も良いロールモデルとなるわけです。
つまり、私立大学は企業戦士を育成することがその第一目的となります。

そのような視点で、なぜ入試問題に古典が導入された(特に経済学部なのに数学は課されずに古典が課されているのか。)と考えてみた場合、大学進学率が急激に上昇した1965~75年、いわゆる高度経済成長期が
どのような時代であったのか(どのようなスキルが求められていたのか。)を考えるのが、その鍵となりそうです。

高度経済成長期はおそらく今以上に、「日本人」として生きる事が求められてきた時代だと思われます。いわば、「空気を読み察する能力」の事です。そして、サラリーマンとして、生きるためには、
自らをへりくだり、上司や顧客を持ち上げなければなりません。それは出来ることの証明の一つが、敬語を適切に使用できることです。

そのように考えてみますと国語のジャンルの中で、突出して敬語が多用されているのが、古文となります。評論文の書き手は大学教授が多く、さらに啓蒙的な目的もあるので、企業戦士として活躍する学生が、そのような啓蒙マウンドを学んでしまえば企業で活躍出来なくなってしまいます。なので、あくまでも評論文は、読解のツールとして使用するのが妥当だと思われます。そして、小説は、基本的に対等な立場の人間同士のストーリーが大半を占めています。しかしながら、企業戦士が対峙する上司と顧客は対等な立場ではありません。圧倒的に上の存在です。ですので、そのような「対等マインド」を会得しでも、それもまた企業で通用しません。そのように考えた時に、
古文こそが、「敬語を適切に用いて、相手を敬う事が出来るスキル(もしくは、習得可能性)」があるかどうかを判別できる科目となるのです。

古文も現代文も共通して、尊敬語、謙譲語(Ⅰ・Ⅱ)、丁寧語が存在します。そして、現代語ではない原文を通じて、その表現が尊敬語か謙譲語か丁寧語を判断でき、適切に訳せること。その能力は、敬語使用能力に繋がります。
例えば、次の論文においては、古典語における多くの大学生の誤訳が掲載されています。

「古典語指導から見た現代語敬語の問題点」
https://tokyo-metro-u.repo.nii.ac.jp/record/9770/files/20028-008-003.pdf

論文に掲載されているような誤訳をしないことは、敬語を適切に使える能力があるとも言えます。つまり、古文を訳する能力を通じて、現代敬語を適切に使用する能力があるかを測定できるのです。
そのように主張すれば、「それなら直接、現代語でわざと間違った敬語表現を出題して、それを訂正させる問題を出題すればよいのでは」と反論が来ると思います。しかし、実質は企業戦士養成所として機能していても、
建前上、大学は学問の研究所です。大学にも研究所としての面子がありますし、このような入試問題を出題していれば、「大学として不適切である」と文科省から言われるかもしれません。大学は学問を修める所であり、
その能力の一つとして古典の読解能力が必要であるという建前(研究者からすれば本音でもあります。)と、ビジネスで活躍できるスキルの一つである敬語を使える学生が欲しいという本音を満たす教科・・・
それこそが、古文であると私が考えます。だからこそ、古文(多くの私立大学では漢文が出題されていません。)が私立大学の入試において出題されているのではないかと思われます。

そして、銀行員としての主な仕事とは何でしょうか。それはどぶ板営業と呼ばれるような営業です。顧客から多額の現金を預けてもらう。融資営業において、企業の経営陣と向き合う。そのようなスキルが必要
なのです。そして、新入社員であっても、自分の父親の年齢以上の様々な人間と向き合わないといけないのです。そのような時に必要なスキルは、マクロ経済やミクロ経済を理解していることでも、数学に強い
事でもなく、「相手を立てるスキル」なのです。その一つとしては、敬語を適切に使用することなのです。「こいつは敬語すらまともに使えないのか。」と思われたら、一気に相手にされない可能性があります。
古文を原文で読み、適切に敬語に訳す能力はこのような営業スキルとして活用できると思われます。

また、特に平安時代の文学を学ばせる事は、営業に必要なマインドを学ぶ事が出来ます。それは、過去に言われていた「お客様は神様です。」の精神です。平安文学は帝や上級貴族を絶対視し、そして彼らに対して、
過剰なほどの敬語を使用します。その精神こそ学ぶべきで、顧客を帝と置き換え、自らへりくだる。それが、営業マンとして求められるスキルです。

更に、一般的に年齢層の高い人々の方が、「古典」を嗜んでいる割合が高くなります。そして、経営者は、自らの経営理念を「古典」から引用している事も多いと思われます。そのような場合を想定するならば、
ますます「古典」を学ぶ事が、ビジネススキルとして活用できるのです。

そして、古文特有の「情緒性」も必要です。これは、単に自然に感動するという意味ではなく、「古文で表現されている情緒って何よりも重要だ」という事を理解することです。顧客の「お気持ち」に寄りそうためには、
古文特有のマインドをインストールしなければなりません。

以上のような理由で、多くの卒業生が実質営業として生きていく私立文系の卒業にとっては、数学よりも古典の方がはるかに重要なビジネススキルであると思われます。要するに、数学によって培われた論理性で、
相手を理詰めで論破するような人材は、特に過去の日本社会では求められていないのです。そうではなく、古文読解で培われた敬語スキルと情緒を理解し、相手を徹底的に立てることが出来る人材が求められてきたのです。
だからこそ、私立文系が古文を入試問題に課しているのは理に適っていたと思われます。そして、その状態が長く続いてきて、今に至ったと思われます。

しかし、これが成り立つのはあくまでも、日本が「同一性の強い儒教社会」である場合のみです。「年上というのは理由なく偉くて、情緒を理解することは当然のスキルだ。」ということが前提条件として、
共有されている場合です。

昨今のブローバル化(私は欧米化と思っています。)はその日本社会の前提条件を崩してしまいました。金融業界においてもIT化が求められることで、数学に強い理系が求められるようになりました。そして、
多様性が持ち込まれることで、文化の相対化が進みました。文化背景の異なった人々と共生するために重要な事は「公平性に基づく」事です。そして、「公平性」というのは論理に基づいています。
そのように考えると、現在の社会で求められる事は、「エビデンスに基づき、論理的に明瞭に主張出来る事。」となります。

おそらく高度経済成長期において、私立大学が古典を入試として課していたのはある程度意義はあると思われます。その形態がずっと続いてきたのでしょう。(日本は基本的に変化を好まない国です。)
その結果、時代遅れとなり、何のために古典をやるのかとその存在意義が厳しく問われるようになったのでしょう。

本来は、ゴルゴンさまの他の質問にも答えたかったのですが、また時間がありましたら、その他の質問にも返答したいと思います。ご了承下さい。
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Unknown (ゴルゴン)
2025-01-30 13:08:15
実事求是様

返信ありがとうございます。大学側の都合が古典教育の在り方を規定している、ということですね。興味深い視点、ありがとうございます。

私からはある程度納得できる点と、疑問に思う点がそれぞれあるので、以下それを書かせていただきます。


①納得できる点
そもそも現在行われているセンター試験⇒共通テストという変更は、文科省が生徒に求める学力の変化=指導要領の変化に実態を持たせるための施策だと考えられます。すなわち、ゴールの性質を変えれば、学校で教えるべきことも変わる、ということですね(まあそれが一層顕著なのは「探究」と呼ばれるものの導入ですが)。

その意味で言えば、私立大学におけるマス対象の試験のあり方が、高校生の動向やそれを指導する高校側の教育内容を規定している、という見解にはある程度説得力があるように思われます。


②疑問点Ⅰ
私自身の経験や、「メガスタ」のような受験情報動画を元にすれば、地方の県立高校が目指させるのは、まず地元国公立です。そして校内の優秀な生徒には旧帝大を目指させるという動きを取ります。

それはなぜかと言えば、地元からの評判はもちろんありますが、そもそも地方には国公立に伍するような私立がほぼ皆無だからです(正確に言えば、中身をよく知ることもなくそう見なされている場合も多い)。もちろん大都市部なら「関関同立」や「早慶上智」といった例外があり、その周辺地域はそれら私立を目指す生徒が多い学校もあるでしょう。

となると、「私立大学に合格するための知識詰め込み型の授業」なるものを意識している高校がどの程度の割合存在するのかは、その進学先や授業内容を見て慎重に吟味する必要があるように思われます。

ちなみに私のいた高校では、やはり国公立に行けと喧しく言われていましたが、授業自体は文法暗記や品詞分解中心で、当時の人々の思考様式だとか、古典とその背景に対する俯瞰的視点など、授業で一度も出てきた記憶はないですね。

ただ、当時古典を教えていた方の名誉のために言っておくと、古典の文法事項と熊本弁の共通性に関する知識などは様々教えていただいた記憶があり、当時こそ大きな影響はなかったものの、今あれこれ言葉について考える時に、参照するケースも少なくないですね(例えば熊本弁で祖父が「そうどうする」という言葉を使っていて、場面的に言いたいニュアンスは伝わるものの、音だけではその言葉の由来がわからなかったのですが、後に「お家騒動」とかの「騒動」とわかった時になるほどと納得したことなどは、古語を理解する時に平仮名のままではなく漢字を当てはめるとその概念が理解しやすい、という自身の経験から来ていたりします)。

なお、この個人的なエピソードをわざわざ書いたのは、私自身が受けた古典教育へのルサンチマンから古典教育を批判している訳ではないことの注意書きとして、という点も付言しておきます。


③疑問点Ⅱ
「経済学部なのに、どうして古典は課して数学は課さないのか?それはその方が受験生が集めやすいからである」

この点は実事求是様のおっしゃる通りだと思います。基本的な傾向として、私立文系は理系科目、わけても数学を回避するために選択している人が多く(過剰一般化を恐れずに言えば、もしそうでなければ国公立を目指し続ければよいからです)、ゆえに彼らから受験対象として外されないことを考えた場合、数学を受験科目とするのは悪手だからですね(その意味で言えば、学力測定云々より、もっと俗っぽい要因だと考えられます)。

さて、ここからが疑問ですが、ここでおっしゃっている理由は、「数学を受験科目に課さない理由」としては理解できますが、「古典を受験科目に課す理由」にはならないように思いますがいかがでしょうか?

実際、管見の限りでも、
・一橋大(旧商科大)
・法政大-経済
・成城大-経済
・上智大-経済

といった大学は、現代文こそ出題しますが、古典は出題していません(上智は「いませんでした」が正確ですが)。このことからすると、数学を受験科目に必須とするかは別にしても、古典をなくすことはできますし、やる訳です。

この事実を踏まえると、実事求是様の見解は「なぜ経済学部は数学を受験科目として必須にせず、社会で受験できるようになっているのか」という説明としては適切ですが(なぜなら数学嫌いの私立専願者にも受けてもらえるので)、「なぜ数学は必須でないのに古典はしばしば必須になっているのか」という説明にはやや不適当なように思われます。

まあこの件については、心理学部なのに数学が受験にいらないとか(統計は??)、医学部なのに数Ⅲは必須なのに生物はなしで受験できるとか(生化学とかあるのに??)、そもそも一般入試システムと学部での学習内容のミスマッチ、という巨大な問題が背景にあるように思われますが、ここで扱う余裕はないので、一旦触れるにとどめておきます。


④疑問点Ⅲ
これは②とリンクし、かつ学習指導要領や学校の定期試験、および大学入試問題の変遷といった膨大な資料分析が必要なのであくまで問題提起にとどめますが、そもそも「古典学習を通じて異文化理解やそれを踏まえた思考力を養成する授業」を日本全国の授業で教師は展開できるのか、それに対応できる生徒はどれくらいいるのか?という疑問があります。

話をわかりやすくするために逆のケースを言うと、暗記できているか否か≒努力量を問い、答えが一意に決まるような授業・試験なら、極論誰でもどこでもできる、ということです。

つまり、日本の公教育の広がり、言い換えれば「平均的なレベルの高さ」と裏腹の関係になるのですが、誰でも高いスキルは求められず、かつ成績をつけやすいという意味で、「一種の必要悪としての最適解」が文法暗記重視の授業ではないかと私は考えているのですがいかがでしょうか?

つまり、実事求是様はゴールとしての大学入試が古典教育の性質を規定していると指摘されている訳ですが、私はむしろスタートラインとしての高校授業の限界こそが、ボトルネックとして古典教育の性質を大きく規定してしまっているように思われます。

念のため言っておきますが、これは高校教師にその責を求めれば済む問題ではありません。それは教員試験の合格が必ずしも高い授業スキルを保証しないのも去ることながら(膨大な数の教員がいるのですから当然のことです)、今問題となっている部活やら生活指導やらで授業以外にやることも多い上、さらに度重なる指導要領や入試仕様の変更といったものへの対応にリソースを割かなければならないからです。

さらに、いわゆる学力困難校の生徒を教えるケースもあるでしょうから、生徒がついて来れるのか?という問題もあります。

以上のことを踏まえると、最低限の授業を成立させて成績もつけるためには、文法暗記型の授業が求められざるをえないのではないか?とも思えてくる訳です。


とりあえず以上となります。
ちなみに私が古典教育肯定派の方(もちろん実事求是様のことではありません)の意見を見ていてしばしばナイーブだなあとの印象を持つのは、こういったシステム面での発想というものが驚くほどのレベルで欠落しているからです。

その「高邁な」理想だけのたまっていて、実効性や実現可能性をまるで等閑視している様を見ていると、ああ単にお題目を語っているだけなんだなと(そしてその事にすら自分で気づいていないんだなと)思わず冷笑が浮かんでしまう訳ですが。

以上です。
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Unknown (実事求是)
2025-01-30 01:53:25
ゴルゴンさま

返信ありがとうございます。

「古典がなぜ入試に出題されるのか。」と考えた時に、それは古典が「数学程は難しくないが、単語を覚えないと点が取れない教科である。」という事に起因していると思われます。

 そして、その事で誰が一番得するかと言えば、文系が大部分を占める私立大学の経営陣だと思われます。特に私立大学を目指す層に受験してもらおう(受験料を払ってもらう)ためには、数学を課すのは悪手です。実際に、早稲田大学の政治経済学科が数学を入試の必修科目にした年には、志願者が大幅に減少しました。

 その視点で古典という科目を見てみますと、経営陣からは、「受験生が努力したかどうかを簡単に測定できる」となり、一方の受験生からすれば、「覚えるだけで、大学に入学できる。」といった双方ウィンウィンの関係が成り立つわけです。

 だからこそ、ある種のゆがみが生じています。それは経済学部なのに、数学が課されていないということです。経済学は数学が必要なのは言うまでもありません。経済学を修めるのであるならば、本来は数学を必ず入試で課さなければなりません。

 そのように言いますと、古典必修派からは、「もしかしたら、二宮金次郎の研究をするかもしれないし、そうなれば古典を原文で読めなければならない。」と主張してくるでしょう。それに対しては、「それはごもっともだか、その前に数学をやれよ。」って話になります。

 つまり、古典は簡易努力測定ツールとして便利な道具に成り下がっているのです。つまり、長年、古典を道具として使ってきたのは大学側なのです。学問上、数学が必要であるのに、目先の受験料収入の為に、数学を除外し、古典を使用し続けてきたのです。

 そして、ゴルゴン様が以前のブログにて、おっしゃていたように、「道具主義的に教わるものは、役に立つと実感されない限り、否定されるのが当然である」となります。ある意味、今の古典不要論は、そのような大学の姿勢の写し鏡とも言えるかもしれません。

 要は、「あなた方(大学)が古典を道具としてみなしているのだから、私もその姿勢を見習っただけだ。どうして、私は非難されなければならないのだ。あなた方はよくて私はダメなのか。それは単なるダブルスタンダードではないか。」となるわけです。
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Unknown (ゴルゴン)
2025-01-29 03:28:31
実事求是様

丁寧な返信ありがとうございます。2つに分けてお返事したいと思います。

【1】
>確かに、古典を歴史の流れの中で位置づけて教えるのは理想だと思いますが、単位の制約上(実際に、必修科目の言語文化は2単位で、その中の古典分野は1単位しかありません。)難しそうです。ですので、制度を変えるしかないと思います。(中略)だからこそ、「日本人の精神性を理解する」事を第一目的とするならば、現行の共通テストや私立大学や国公立大学で行われている古典の入試は廃止しなければなりません。あのような試験は、99%原文の読解スキルしか求められていません。おそらくそのような能力はAIの方がはるかに高いでしょう。そして、日本人の精神性を理解しているかどうかを判断するためには、それこそ、日本史や倫理(日本思想)の分野で論述問題を課すべきであり、現行の原文読解スキルではないことは確かだと思います。

おっしゃる通りです。正確に言えば、古典教育が目的としているらしいものへの到達方法は複数ありますが、現行のシステムでは極めて厳しいということですね。

私が古典教育肯定派のあり方に極めて懐疑的なのは、この点を厳しく論じているものを管見の限り見たことがないからです。古典教育が目指す理想からすれば現状は噴飯もの以外の何物でもないはずです。加えて、情報やら何やら新規の科目にも対応しなければならないのに、古典教育の目的達成のためのシステム変更(効率化・最適化)といった話はついぞ聞いたことがありません。

そのようなあり方に、私は古典教育肯定の人々の思考様式がおしなべて現状肯定的・権威主義的なものと映るわけですね。

もし仮に、私が真剣に古典教育が目指しているとかいう「当時の人々の思考様式を理解する」といった目的を真剣に達成せんとしていたならば、現状を見たら血涙を流して慟哭するレベルだと思うんですがね(例えば平安時代を考える時に『源氏物語』や『枕草子』しかイメージできないのだとしたら、現代日本において豪邸やタワマンに住んでいる高級官僚や大企業経営者の生活様式しか想像できないのと同程度には愚昧です。これはむしろ現代古典教育の弊害とすら言えるかもしれません)。

ちなみに、これだけだとただ腐しているだけにも聞こえかねないので代案を出しておくと、古典と歴史をクロスオーバーさせることはそこまで大きな変化をさせずとも工夫は可能と考えます(これは以前「漢字の到来と古典の学習について」という記事でも述べたことがあります)。

例えば、かつて京大で出題され、今でも一橋では出ている近代文語文を言語文化のスタートにする方法があります。現代文であるようで現代文ではない、つまり漢文の書き下しのような文体から始めて、そこから近世⇒中世⇒古代と遡行していく訳ですね。

その中において、現代日本語との連続性と差異といった視点で文法や古語を取り上げたり、あるいは現代でも人気のある作品の歴史的評価の変遷(例:『源氏物語』に関する『更級日記』と『源氏物語玉の小櫛』)を提示する、といったことを通じ、社会的通念の変化や連続性を考えさせる、といったアプローチがありえるでしょう。

なお、今の入試問題が古典教育が目的としているとかいう素養を問うものになっていない、という指摘は全くその通りだと思いますね。挙げていただいた國學院大学の問題はその点において良くできていると思います。まあ一作品の解釈の深化だとかなり難度が上がる可能性があるので、例えば『紫式部日記』と『枕草紙』を比較対照した現代文の評論を読解させる、といった入試問題のアプローチもありかと思います。


【2】
そして、古典教育肯定派が原文読解に固執するのは、「思考は言葉によって左右される。」といった価値観を前提としているからだと思われます。「人は言葉によって思考が左右され、その結果文化が創造される。だからこそ、過去の文化や思想を理解するためには、過去の言葉を学ばなければならない。」と。

この点について、そういう理念、というか発想法そのものに必ずしも反対する訳ではありません(例えば日英のバイリンガルが、同じ人間なのに双方の言語で意思表示の仕方が大きく異なってくる、なんて話も聞いたことがあります)。

ただ、これもそのような価値観へ真摯にコミットするなら、やはり教授法について真剣に考えずにはいかず、少なくとも今の教育スタイルに対しては極めて強い不満と改善要求をしない訳にはいかないのではないでしょうか。そしてそれがない時点で、やはりこれもお題目に過ぎない、というのが私の見立ててです。

前述のような価値観には、例えばソシュールといった様々な先行研究の影響があると思われますが、では仮にその言語学を意識した場合、古典教育は一体そこでどんな言語概念を提示しているのでしょうか?

これが全く等閑視されている事例として、試みに英語教育を挙げてみましょう。例えば、「我慢する」という言葉があります。これを表す単語として、大学入試レベルではstand/bear/endure/tolerateを上げることができるでしょう。そして、これを「同じ意味だからと言って全て等号で繋いで暗記するのが、今の英語教育」だと私は考えています。

この教え方は、単に単語の意味を覚えて出てきた英語文章を和訳するだけなら、なるほど合理的でしょう。しかし、実際の英語使用者のスタンスとして捉えるなら、これは完全に間違っています。というのも、例えばstand/bearは英語本来語で日常的で温かみ・親近感を与える単語なのに対し、endureはフランス語由来で優雅な印象を与え、tolerateはラテン語由来の厳密・厳格さを印象づけます。これは現代日本語で言えば、ある感情を表す時に、英語本来語⇒「ウザい」・フランス語由来⇒「煩わしい」・ラテン語由来⇒「煩瑣」といった事例で置き換えることができますが、この三つが全て=で繋げられると思っている人間は、果たして英語の何を理解しているのか?ということです。

この点について、英語の省略形がフォーマルな場に相応しくないことを理解できない、というか習わないまま入試現場で英作文に書いてしまう話として、東北大の問題を事例に「英語教育とレジスター(register)」という記事でも取り上げたことがありますが、まあ仮にも旧帝大受験者=日本の中では相当にレベルが高い人々の入試実戦レベルがこれであれば、生徒の能力値の問題というより、日本の英語教育がそういうものを全く重視していないことの証左と捉える方が適切だろうと私は考えています。

英語教育の話が長くなってしまいましたが、古典教育についても同様、というかもっと悲惨なのではないか?というのが自分が受けてきた教育にまつわる経験から考えていることです。

話すと長くなるので手短に書きますが、例えば助動詞の「る・らる」にある「自発」って意味は何なの?てどれだけの生徒が説明できるんでしょうかね?もちろん説明は非常に難しいんですが、ここで現代語の「先が思いやられる」みたいな事例がさっと出てくる人ってどれくらいいるんでしょうか(こういう思考がさっき申し上げた近代文語文からの遡行の話などにも繋がります)?他にも「めり」(見えり⇒視覚推量)、「なり」(「にあり」に由来)など枚挙に暇がありません。

あるいは単語で言うと、「よし」「よろし」「わろし」「あし」という表現から受ける印象の違いはどのようなものなのでしょうか?「良い」「悪くない」「良くない」「悪い」という置き替えでいいのか??

・・・といった具合に枚挙がない訳ですが、それこそ過去の人々の価値観・世界観を知るために必要なこういう言語概念について、一体どれだけちゃんと説明がなされているのか。もしこれが「単語帳の赤字の意味を覚えてこい、来週テストするぞ!」だったら、さっきの英語教育の件と何ら変わるところがありませんよね(ここには、古語を単なる記号としてしか暗記していない、という問題が横たわっています。それを現代の我々が理解するにあたっては、一度それらを漢字化した上でその概念的理解を土台に現代日本語化する、というプロセスを経ないとまあ理解には程遠いんじゃないかと思います)。

で、私は今の古典教育はまあせいぜいがこのレベルであって、だったら大変ご大層な理念は単なるハリボテでしかないと思う訳です。念のため補足しておくと、これは教える側だけの問題(怠慢)というつもりはありません。短い時間や生徒の興味の無さという制約の中で、テストで成績を付け、入試では点を取らせなければならない状況を踏まえれば、かなり苦労をされている人も多いのだと思います。

しかしそうなんだとすれば、今のこの制度的制約の中で、教師はただ趣味に走るか絶望の中で最低限の知識を叩きこむ方向で割り切るかし、生徒は何に使うかわからね~!と文句を言いながら、さりとて成績がつくから最低限はやるしかない、入試に受かるために詰め込むしかないという状態は、一体誰に何の益になっているんでしょうかね?と私は思うわけです(こういう話をすると、大抵「自分は違う」という一般と特殊具体の区別もつかない反論がきますが、日本全国で行われている公教育だからこそ問題なんですよね)。

そんな体たらくを、お題目で正当化してるような状況を見ると、そりゃあコマ数を削られるのは当然だし、何の役に立つのかわからんとより多くの人に言われるのも必然と言えるように思います。


以上です。
まあここからは前回と同じ結論になりますが、古典教育のパラダイムシフトが起きる可能性は(そのシステム変更の困難さから)ほぼ絶無で、であればゆるやかに死んでいくしか選択肢はないだろうな...というのが私の未来予想図な訳ですが、そんな惰性に巻き込まれる生徒たちはさすがにちょっとかわいそうだなとは思ったりしますね。
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Unknown (実事求是)
2025-01-27 23:33:46
ゴルゴンさま

 コメントありがとうございます。確かに、古典を歴史の流れの中で位置づけて教えるのは理想だと思いますが、単位の制約上(実際に、必修科目の言語文化は2単位で、その中の古典分野は1単位しかありません。)難しそうです。ですので、制度を変えるしかないと思います。

 例えば、ゴルゴン様や私が考えているような古典と歴史を融合した教科を教えるなら、最低でも4単位ほど必要になると思われます。ですので、既存の教科を削減するしかないと思います。私自身は、体育(高校体育は
7~8単位とどの教科よりも多いです。)の単位数を減らし、また総合的な探究の時間も大幅な削減もしくは教科自体を無くして、単位数を確保するしかないと思われます。

 それに加えて、ゴルゴン様や私が考えているような授業が行われるようにするためには、入試制度を変えるしかないと思われます。現行の入試制度は多数の学生が受験するため、どうしても客観性に基づいて採点しなければならないので、正解が判別しやすい読解試験となります。古典を学んで身に付けた精神的なものが測定されることはほとんどありません。

 もしも、「古典を歴史の文脈で理解しているか。」「当時の人々の精神性を理解を理解している」を形式上でも測定したいのなら、小論文もしくは面接試験を行うしかありません。
ちなみに私が想定としているような入試問題は國學院大學文学部史学科の総合型選抜入試(選択問題の②の問題です。)ようなものです。

https://www.kokugakuin.ac.jp/assets/uploads/2023/06/420108921ee333168df162d4a4e9fd4a.pdf

 だからこそ、 「日本人の精神性を理解する」事を第一目的とするならば、現行の共通テストや私立大学や国公立大学で行われている古典の入試は廃止しなければなりません。あのような試験は、99%原文の読解スキルしか求められていません。おそらくそのような能力はAIの方がはるかに高いでしょう。そして、日本人の精神性を理解しているかどうかを判断するためには、それこそ、日本史や倫理(日本思想)の分野で論述問題を課すべきであり、現行の原文読解スキルではないことは確かだと思います。

 そして、古典教育肯定派が原文読解に固執するのは、「思考は言葉によって左右される。」といった価値観を前提としているからだと思われます。「人は言葉によって思考が左右され、その結果文化が創造される。
だからこそ、過去の文化や思想を理解するためには、過去の言葉を学ばなければならない。」と。しかし、「元々の思想があり、それを表現するために言葉が恣意的に結びついた。」とも言えると思います。
そのように考えますと、当時の人々の心情を形式上でも理解するためには、やはり、同時の社会状況をまず学ぶべきであると思われます。そして、過去から現代を通じて、どの時代でも共通する「日本人」特有の考え方
こそが、「普遍的な日本人の思考法」であり、それを第一に学ばばないといけないと思います。もしくは、過去の思想の中で、現代に最も影響を与えている思想から順に学んでいくことも考えられます。
だからこそ、平安時代でしか通じないような文法や言葉を学ぶ事に高校の希少な時間を割く根拠は非常に薄いと思われます。

 しかしながら、いくら言っても、ゴルゴン様の考えと同様に、古典のパラダイムシフトが起こる事は困難なように思われます。現行の原文読解中心の古典でも、江戸時代の町人文学を取りあげるという方法もあると思いますが、
なぜかそのような町人文学はめったに取り上げられることはなく、言語文化や古典探究においても「平安文学至上主義」のような構成となっています。
例えば、数研出版の言語文化で取り上げられている題材は「宇治拾遺物語、竹取物語、枕草子、万葉集、古今和歌集、新古今和歌集、徒然草、伊勢物語、土佐日記、平家物語、おくのほそ道」となっています。江戸時代の文学は
おくのほそ道だけです。古典探究では、言語文化で扱ったにも関わらず、「伊勢物語、枕草子、徒然草」が再掲されています。その一方で、江戸時代を代表する作家である近松門左衛門の作品は一つもないといったアンバランス
な状態となっています。日本の「恋愛史」を理解するためには、江戸時代の愛と義理を理解する必要があり、そのためには、その愛と義理を中心に描いた近松の作品を読解するするのがふさわしいと思うのですが・・・。
 数研のHPを見ますと、「特に『源氏物語』ではご要望の多かった「車争ひ」「柏木と女三の宮」を新規収録。物語上の重要なシーンをお好みに応じて扱えます。」(https://www.chart.co.jp/kyokasho/22kou/kokugo/koten/#contents)とリクエストに応じて増やしましたと高らかに宣言しているところから「平安文学至上主義」は変わらないような気がします・・・。
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Unknown (ゴルゴン)
2025-01-27 00:19:19
実事求是さま

コメントありがとうございます。まさにおっしゃる通りですね。まあ中高教員の教育課程であったり、中学・高校での授業時間数といった様々な制度的背景や仕組み上も制約はあるのだと思いますが、結局その仕組みがもはや時代に合っていないと言えそうです。

提案にある日本史探求や倫理を必修にすることが仮に単位取得上難しいとしても、そこから必要な部分を切り出して古典の中に始めから組み込んでしまえばいいんですよね。で、もし学校の古典の先生がそれを教えるスキルがない(なぜなら専門外だから)と言うのなら、そこは映像授業でまかなえばいいわけです。

これまた何でもかんでも人間が対面で教えること(=古い教示スタイル)に固執してるから起こってしまうわけで、本当に真剣に古典を公教育で浸透させようって気があるなら、制度的変化まで視野に入れて考えろよ、と私なんかは思ってしまうわけです(だから古典教育肯定派がしばしば現状維持派・権威主義派にも見えてくるわけですが)。

まあとはいえ、公教育の場において、古典教育のパラダイムシフトが起こる可能性はほぼないでしょう。もしあるとすれば、それは学校教育ではなく、YouTubeなどを通じてのリカレント教育のような形で、興味を持つ人たちが「趣味」で触れるみたいな感じになっていくんじゃないですかね。

乱文・乱筆失礼いたしました。
返信する
Unknown (実事求是)
2025-01-24 23:02:36
そもそも古典を理解しようとするなら歴史背景の理解は欠かせないので、その為には、日本史(現在は日本史探究)と倫理(日本思想分野)は必修科目にしないといけないと思います。
しかし、どちらも選択科目となっているので、古典を理解するための歴史背景や当時の思想を理解することが出来なくなります。
そのような中で「日本文化を理解するために、古典は必修にしないといけない。」と主張されても、片手落ちもいいとこだと思います。
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