前回の「決戦の日について」では、スピーディーな展開によってプレイヤーをダレさせない工夫がなされていると述べたが、大勢が決するとむしろ冗長にさえ思える場面が続く。ここでは、その一つである魅音と小此木と戦いを取り上げる。
勝負のついたこの状況下において、戦闘力の問題などでも批判される恐れのある戦いを描く意図は一体何なのだろうか?戦いが終わった後での魅音と圭一のやり取りを見てみよう。
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「私さ。部活の罰ゲームって好きなんだよね。」
「え?」
「部活ってさ…残酷だよね。仲間で戦いあってさ、ビリを決める。…つまりそれは、その子がビリだってみんなが見下すことなんだよね。」
「見下してなんかいねえだろ。楽しく罰ゲームをしてそれでおしまいさ。」
「そう。罰ゲームで楽しく遊んで、それで終わり。敗戦の将の責任をさ…楽しくみんなで笑って、それでチャラにできるから好きなんだよね。負けた本人も含めて、…みんなで笑って。」
「誰も傷つかない。みんなで笑って、おしまいにできる。」
「あの小此木ってヤツは、私に投げ飛ばされて、叩きのめされなきゃ、自分の罪がさ、禊げないって思ったんだよね。そりゃさ、今日何度もヤバイ目にあったよ、殺されそうに何度もなったよ!でもさ、もう終わりでしょ?ゲームセットなんだよ。なのに、彼らはチャラにできる罰ゲームがないんだね。」
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ここで述べられているのは、つまるところ「罪と罰」の問題である。
「外交官逮捕の演出意図」でも書いたが、祭囃し編は人が死なない話であることがあらかじめ宣言されている。とはいえ、ただ敵を赦すだけでは今までの営為は何だったのか?と疑問を感じる人も多いだろう、という考えのもとにこのような演出が挿入されたと推測される。「昔の魅音はなぜ部活で勝てなかったのか」で述べた罰ゲームの位置づけ(=自罰)も参照。なお、大石と茜のやり取りで出てくる「「戦争」は終わった」発言や鷹野の躊躇いの描写(単純な「悪者」ではない)も想起したい。
魅音と圭一とのやり取りからは以上のようなテーマ、あるいは演出意図が読み取れるが、私はもう一つの演出意図・効果があると考えている。以前「青空、ひぐらし、そしてうみねこへ」でも述べたが、それは「自分達の力で敵を倒した=大団円を勝ち取った」という感覚をプレイヤーに持たせることに他ならない。ではなぜそのような演出が必要なのか?祭囃し編の大団円は赤坂や葛西の活躍がなければ成し遂げられなかったが、それで終わってしまうと「結局どこからか救世主がやって来て救われるのであるし、またそれがなければ救われない」という感覚を無意識にでも植えつけてしまう恐れがある(「お上に任せておけば何とかなる」ってな感じで)。それでは単なる他力本願だし、今までの圭一たちの積み重ねが持つ重みも失われる…そういうわけで、部活メンバーの長である魅音が小此木を倒すのを最後の締めにして他力本願あるいは受動的な要素・印象をできるだけ排除し、プレイヤーが「幸福(大団円)とは自らの力で勝ち取るもの」という感覚を持てるような描き方をしたのではないだろうか(「カケラ紡ぎの意図と効果」で述べたプレイヤーの巻き込みの演出も想起したい)。
魅音と小此木の戦いが持つ意味については以上である。
ところで、先ほどは深入りしなかったが、戦闘力の問題はこの戦いや赤坂たちの活躍はもちろんのこと、ひぐらし全体にも関わるため避けては通れない。よって次回は、その話題から始めることにしたい(なお、祭囃し限定でよければ「戦闘力の妥協点[大人編]」や「赤坂・富竹・葛西の役割分担」を参照)。
勝負のついたこの状況下において、戦闘力の問題などでも批判される恐れのある戦いを描く意図は一体何なのだろうか?戦いが終わった後での魅音と圭一のやり取りを見てみよう。
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「私さ。部活の罰ゲームって好きなんだよね。」
「え?」
「部活ってさ…残酷だよね。仲間で戦いあってさ、ビリを決める。…つまりそれは、その子がビリだってみんなが見下すことなんだよね。」
「見下してなんかいねえだろ。楽しく罰ゲームをしてそれでおしまいさ。」
「そう。罰ゲームで楽しく遊んで、それで終わり。敗戦の将の責任をさ…楽しくみんなで笑って、それでチャラにできるから好きなんだよね。負けた本人も含めて、…みんなで笑って。」
「誰も傷つかない。みんなで笑って、おしまいにできる。」
「あの小此木ってヤツは、私に投げ飛ばされて、叩きのめされなきゃ、自分の罪がさ、禊げないって思ったんだよね。そりゃさ、今日何度もヤバイ目にあったよ、殺されそうに何度もなったよ!でもさ、もう終わりでしょ?ゲームセットなんだよ。なのに、彼らはチャラにできる罰ゲームがないんだね。」
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ここで述べられているのは、つまるところ「罪と罰」の問題である。
「外交官逮捕の演出意図」でも書いたが、祭囃し編は人が死なない話であることがあらかじめ宣言されている。とはいえ、ただ敵を赦すだけでは今までの営為は何だったのか?と疑問を感じる人も多いだろう、という考えのもとにこのような演出が挿入されたと推測される。「昔の魅音はなぜ部活で勝てなかったのか」で述べた罰ゲームの位置づけ(=自罰)も参照。なお、大石と茜のやり取りで出てくる「「戦争」は終わった」発言や鷹野の躊躇いの描写(単純な「悪者」ではない)も想起したい。
魅音と圭一とのやり取りからは以上のようなテーマ、あるいは演出意図が読み取れるが、私はもう一つの演出意図・効果があると考えている。以前「青空、ひぐらし、そしてうみねこへ」でも述べたが、それは「自分達の力で敵を倒した=大団円を勝ち取った」という感覚をプレイヤーに持たせることに他ならない。ではなぜそのような演出が必要なのか?祭囃し編の大団円は赤坂や葛西の活躍がなければ成し遂げられなかったが、それで終わってしまうと「結局どこからか救世主がやって来て救われるのであるし、またそれがなければ救われない」という感覚を無意識にでも植えつけてしまう恐れがある(「お上に任せておけば何とかなる」ってな感じで)。それでは単なる他力本願だし、今までの圭一たちの積み重ねが持つ重みも失われる…そういうわけで、部活メンバーの長である魅音が小此木を倒すのを最後の締めにして他力本願あるいは受動的な要素・印象をできるだけ排除し、プレイヤーが「幸福(大団円)とは自らの力で勝ち取るもの」という感覚を持てるような描き方をしたのではないだろうか(「カケラ紡ぎの意図と効果」で述べたプレイヤーの巻き込みの演出も想起したい)。
魅音と小此木の戦いが持つ意味については以上である。
ところで、先ほどは深入りしなかったが、戦闘力の問題はこの戦いや赤坂たちの活躍はもちろんのこと、ひぐらし全体にも関わるため避けては通れない。よって次回は、その話題から始めることにしたい(なお、祭囃し限定でよければ「戦闘力の妥協点[大人編]」や「赤坂・富竹・葛西の役割分担」を参照)。
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