ホームレス殺人事件が多少話題になっているようだ。その執拗な攻撃や集団リンチの様子から、厳罰の適用はもちろん、「死刑」を叫ぶ者までいるようである。私はこの「バカ騒ぎ」を見ていると、見上げた頭の悪さだなあと思う。
一人一人の発言者がこの事件前にどのような意見を表明していたのか、もちろん私は知らない。しかし少なくとも、全体として観察できるのは、ホームレスに関しては救済すべしという意見より、圧倒的に自己責任論が多数を占めているということだ(たとえば2019年の台風の際には、税金を払っていないのだから体育館に入れるべきではない≒死のうが知ったことではない、といった意見が多数出ていたのを思い出す人もいるだろう)。
要するに、「だらしなさでそういう境遇に陥ったわけだから、自分で何とかしろ」というわけである。そのような「世間」の物言いと今回のリンチ殺人を見る時、私は完全に地続きだと感じる。つまり、「だらしない、取りに足らない存在だから、いたぶっていい」というわけだ。
とするならば、かかる世論とその形成に関わっている者たちは、いじめを囃し立てる者たちに喩えることができる(少なくとも、ただの傍観者よりは積極的に関わっているだろう)。では、そうして「いじめ」がエスカレートして対象を殺してしまった時、囃し立てた者たちが突然「許さん!厳罰に処せ!」と噴き上がっている姿は、どのように見えるだろうか?おそらく多くの人間が、「どの口がほざくか」と呆れるに違いない。
思えば、相模原事件の時もそうだった。「障がい者が社会にとって足かせになっている」という言説が世を蓋っていくと、どのような出来事が起きるのか?あの事件が起きてようやく実感した者も少なくなかったに違いない。しかし多くは、己に批判の刃が向くのを恐れてか、それまでの言説はなかったことのように、犯人を批判するどころか異常者扱いして、自分たちとは無関連なものとして処理したのである(つまり、「交換可能性」の概念が完全に欠落していた)。
こういった相模原事件、2019年の台風、そして今回のホームレスリンチ殺人・・・これらにまつわる言説を見る時、徹底して欠落しているのは「明日は我が身」という感覚であり、そしていざ問題が噴出すると、慌てて取り繕いを始めるのである(この背景には、創造力の欠落はもちろんだが、人間=本来は理性的存在という妄想があるのではないか)。今述べたことを踏まえれば、「人が死なないと制度が変わらない」という日本にしばしば指摘される問題点は、単に行政や司法(これは誤解なのだが、あえて言えば一般市民にとっての「他者」)の問題などではなく、それらの代表者を選んだり、そこに意見を出す我々自身の問題だと言わざるをえない。
まあそういうわけであるから、(少子高齢化+消費増税による不況+コロナによる恐慌状態などで)今後あちこちに穴が開いて気が付けば奈落へと落ちる人間が増えていく状況にもかかわらず、それに適切な手当てができず(むしろ俺・私は必死に生きているのに何でそいつは助けるんだと噴き上がる)、この世の地獄が日本には招来するであろう改めて述べつつ、この稿を終えたい。
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