うみねこ:推理すべきは魔女から逃れる方法か?

2008-01-03 20:20:12 | ゲームよろず
(はじめに)
前回、感想を述べつつ魔女が執拗に不和を煽っていることに疑問を呈した。ここでは、まず「犯人は魔女である」という仮定に基き、推理の対象が魔女の手口そのものではなく、その魔手より逃れる手段であることについて述べる。ただし、この論は現段階で二つの大きな問題を抱えている。それも同時に提示するので、考察の材料になればと思う。


<推理の対象は?>
第二話においては、メタフィクションの形式で魔女とバトラの「チェス」(人為でも可能か否かの論争?)が繰り広げられる。これがひぐらしにおける舞台の意識や「祟りVS人為」的やり取りを追求したものであることは明らかだが、そこでは言葉や定義についてこだわっている点が注目される。その視点でジャケット裏の「推理は可能か不可能か」「貴方に問うのは犯人ではない」といった文言を見ると、求められているのは犯人当てやどうすれば人間の手でも可能かではなく、魔女の手口に対する向き合い方ではないかと思われる(もっとも、「人か魔女か幻想か」という矛盾するような記述も見られるのだが)。では「向き合い方」とは何か?推理という言葉からはどうしても(密室に見せかけたりする)手口の方を連想してしまうが、以下の事実から魔女の殺人から逃れる方法だと考えられる。

第一話において、バトラやジョージたちは魔女ではない可能性を最後まで捨てきれず、なすことなく死んでいった(スタッフロールでバトラ以外が魔女を認めたことが確認されている)。一方、第二話のジョージやシャノンたちは魔女の仕業であることを認めて対抗策を練ったため、最終的には殺されたけれども多少の抵抗ができたのであった。

両者の違いを考慮に入れるのなら、(連続)殺人を人間の偽装工作として動くより、魔女の存在を認めた上で行動する方が有益であるのは疑いない(第一話の夏紀のお守りなども想起)。また魔女の存在を認めればこそ、碑文の問題が妙なトラップではなく純粋なリスクとして早急に解くべきものと認識され、魔女復活の儀式を止めることに繋がるのではないか?

例えば、前作のひぐらしで鷹野たちの策謀をかわすのに力ずくでは不可能であって、その目的を考慮して意表を突く必要があった。うみねこの魔女の目的は自身の復活=儀式を完成させることなわけだから、儀式の完成を止めればいい。ところで、魔女はその絶対的優位にもかかわらず執拗なまでに仲間を疑わせるよう仕向けている。その目的は碑文の問題を考えさせないため(※)だと予想されるが、逆に言えば碑文のリスクが嘘偽りのないものであると考えることができるだろう。

以上のことから、犯人は魔女であり、かつジャケットに記載される「推理」の主語は、「魔女の手口」ではなく「魔女の儀式を止める方法」だと推測される。儀式を止める方法は、碑文の謎を解くこと、もしくは魔女の限界を探る中で見つかると思われるが、今はほとんど何も考えていない。さしあたって、魔女が得意げに連発した赤字などを検証することが先決、とだけ言っておきたい。


もし猟奇殺人を行っているのが人間なら、仮に問題を解いて金塊を見つけ出したところで結局は殺されるのがオチ(金塊の独占+口封じのため)だと考えられる。よって、碑文の謎を解くよりも怪しい人間を選定し、彼らから距離を置くことが優先される。


<魔女=犯人説の疑問>
簡単に述べると、
密室にする方法については、周知のように作中でベアトリーチェとバトラが論争を行っているが、そもそも密室にする必要性がどこにあるのかが疑問。というのも、先に述べたように人間同士を疑わせ碑文の謎から遠ざけたいのなら、わざと穴を作る方がいかにもそれらしいからだ。無駄に完全らしい密室を作り上げる意味がどこにあるのか?あるいは無駄に猟奇的な殺し方をする意味がどこにあるのか?

まるで魔女がいることを認めさせたいかのような犯行であり、人間=犯人と思わせ碑文の謎から遠ざけるという先の推論と相反する。またはっきり覚えていないが、第一話で「魔女はいると言えばいる」というような記述があり、まるでひぐらしの「反北条家の号令」の如く、ないものもあると信じれば存在するかのようだ。

以上二点があるため、「魔女の手から免れる方法を推理することが実は目的」という見解を断言することは今のところできない。第一話の記述も含め、さらに検証してみたいと思う。

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