前回の「『共感』という名の幻想:浅い自己認識」にて、広辞苑における共感の意味を掲載するとともに、それが事実上の虚構であって、仮にありうるとしても「奇跡」とでも呼ぶべき稀な現象であると述べた。そこで今回は、さらに突っ込んで共感に潜む二点の問題を扱いたいと思う。
まず第一点。広辞苑に共感はsympathyの訳語とあるが、前回も載せた
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他人の体験する感情や心的状態、あるいは人の主張などを、自分も全く同じように感じたり理解したりすること。同感。「―を覚える」「―を呼ぶ」⇒感情移入
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という意味からすると、sympathyの“a feeling that you understand someone because you are similar to them”という観念(ロングマン英英辞典「sympathy」の第三番目の意味)を反映したものと思われる。しかしながら、感情移入とほぼ同義に扱われていることを考えると、日本語の共感は‘sympathy’よりも‘empathy’に近いと言えるのではないだろうか(語源はsympathyだとしても、だ)。また細かい点ではあるが、“similar”が「全く同じ」となるあたりが欧米に比して日本の同質性の高さが反映されているように思える。
※ただしこの見解は、sympathyが共感として移入されて以来両者の概念が変化していないという仮定に基づいている。意味内容の変遷についても検証する必要があるだろう。
第二点は、他人と「全く同じように感じたり理解したりする」という虚構に満ちた言葉(すなわち共感)が濫用されているという事実である。おそらく、今までの記事を見て「一般の人が辞典の意味を忠実に言葉を使っているのか?」という疑問を抱いている人もいるのではないだろうか。確かに、人が「全く同じ」という点を強く意識して共感の語を使っているとは思えない(ただし、意識せずとも前述のような意味が込められているところは非常に問題だと感じるが)。しかしながら、専門家が共感という語を平気で使うのはいかがなものか。
例えば光文社新書『人格障害かもしれない』の著者は臨床心理士で講談社現代新書『他人を見下す若者たち』の著者は教育心理学を専門としているが、ともに共感の語を何の疑いもなく使用している。おそらく彼らは英語のsympathyの概念をそのまま共感に置き換えているだけだろうが、日本語で共感と書いてある場合に読者がどのような印象を持って読むのか考えなかったのだろうか?両者のカテゴライズからすると共感できるのが健康な(あるいは正常な)人格らしいから、つまりは「他人と全く同じように感じたり理解したりする」のが正しい姿ということになるが、明らかな不可能ごとを「健康」「正常」として要求される結果何が起こるだろうか?
まず間違いなく、「人は努力なしに理解できて当たり前だ」という誤った観念を助長するだろう。そしてその観念が、「異分子は排除して当然」という姿勢を生み出すのだ。またそういう観念を持った人間は、相手に強い親和性を当然のように求めるようになる。あるいは、その観念を裏切られた人が人間不信になることもあるだろう。要するに、共感なる虚構こそは人格障害を生み出す主要因と言えるのだが、にもかかわらず心理関係(しかも片方は人格障害関連!)の本で何の疑いもなく使用されているのが非常に問題なのである。
※もっとも、心理学の世界では「共感なるものが存在するか」を検証するための実験も行われているらしく、広辞苑の共感とはまた違ったニュアンスで共感の語を使用している可能性はある。しかしそれでも、ちゃんとした注をつけておくべきであった。
以上、共感という語の概念とその濫用について述べてきたが、これらから感ずることは日本社会の同質性の高さと、同質性がどのような点で利点・欠点があるのかといった部分の検証が不足しているのではないかと言うことだ。以前にも書いたが、選択肢と価値観の多様化はもともと不可能な共感をさらに不可能なものとするのだが、そういう現代の中で「共感をするのが健康・正常な人格」と定義するのは何とも不毛だと感じる。心理系の本がそうであれば、一般人の認識は推して知るべしかもしれない。
共感の虚構性を理解し、「理解しようとする姿勢こそが重要」とする社会は一体いつ訪れるのだろうか…
まず第一点。広辞苑に共感はsympathyの訳語とあるが、前回も載せた
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他人の体験する感情や心的状態、あるいは人の主張などを、自分も全く同じように感じたり理解したりすること。同感。「―を覚える」「―を呼ぶ」⇒感情移入
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という意味からすると、sympathyの“a feeling that you understand someone because you are similar to them”という観念(ロングマン英英辞典「sympathy」の第三番目の意味)を反映したものと思われる。しかしながら、感情移入とほぼ同義に扱われていることを考えると、日本語の共感は‘sympathy’よりも‘empathy’に近いと言えるのではないだろうか(語源はsympathyだとしても、だ)。また細かい点ではあるが、“similar”が「全く同じ」となるあたりが欧米に比して日本の同質性の高さが反映されているように思える。
※ただしこの見解は、sympathyが共感として移入されて以来両者の概念が変化していないという仮定に基づいている。意味内容の変遷についても検証する必要があるだろう。
第二点は、他人と「全く同じように感じたり理解したりする」という虚構に満ちた言葉(すなわち共感)が濫用されているという事実である。おそらく、今までの記事を見て「一般の人が辞典の意味を忠実に言葉を使っているのか?」という疑問を抱いている人もいるのではないだろうか。確かに、人が「全く同じ」という点を強く意識して共感の語を使っているとは思えない(ただし、意識せずとも前述のような意味が込められているところは非常に問題だと感じるが)。しかしながら、専門家が共感という語を平気で使うのはいかがなものか。
例えば光文社新書『人格障害かもしれない』の著者は臨床心理士で講談社現代新書『他人を見下す若者たち』の著者は教育心理学を専門としているが、ともに共感の語を何の疑いもなく使用している。おそらく彼らは英語のsympathyの概念をそのまま共感に置き換えているだけだろうが、日本語で共感と書いてある場合に読者がどのような印象を持って読むのか考えなかったのだろうか?両者のカテゴライズからすると共感できるのが健康な(あるいは正常な)人格らしいから、つまりは「他人と全く同じように感じたり理解したりする」のが正しい姿ということになるが、明らかな不可能ごとを「健康」「正常」として要求される結果何が起こるだろうか?
まず間違いなく、「人は努力なしに理解できて当たり前だ」という誤った観念を助長するだろう。そしてその観念が、「異分子は排除して当然」という姿勢を生み出すのだ。またそういう観念を持った人間は、相手に強い親和性を当然のように求めるようになる。あるいは、その観念を裏切られた人が人間不信になることもあるだろう。要するに、共感なる虚構こそは人格障害を生み出す主要因と言えるのだが、にもかかわらず心理関係(しかも片方は人格障害関連!)の本で何の疑いもなく使用されているのが非常に問題なのである。
※もっとも、心理学の世界では「共感なるものが存在するか」を検証するための実験も行われているらしく、広辞苑の共感とはまた違ったニュアンスで共感の語を使用している可能性はある。しかしそれでも、ちゃんとした注をつけておくべきであった。
以上、共感という語の概念とその濫用について述べてきたが、これらから感ずることは日本社会の同質性の高さと、同質性がどのような点で利点・欠点があるのかといった部分の検証が不足しているのではないかと言うことだ。以前にも書いたが、選択肢と価値観の多様化はもともと不可能な共感をさらに不可能なものとするのだが、そういう現代の中で「共感をするのが健康・正常な人格」と定義するのは何とも不毛だと感じる。心理系の本がそうであれば、一般人の認識は推して知るべしかもしれない。
共感の虚構性を理解し、「理解しようとする姿勢こそが重要」とする社会は一体いつ訪れるのだろうか…
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