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感想:ゴーゴリ「外套」、「鼻」etc...

2006-01-30 21:57:56 | 本関係
ゴーゴリ著、吉川宏人訳『外套 鼻』(講談社学芸文庫 2003)に所収の作品群を読了。それぞれについて簡単に感想を述べていきたい。

・「外套」
最初のわざとらしい書き出し、仕事しか楽しみのないような人間、あるいは尊大な人間の心理(42-47p)の描写など(「検察官」などにも共通する)機知に富んだ風刺に満ちており、思わずニヤリとさせられる。

だがこの作品は、笑わせる側への「サービス」だけでは終わらない。例えば「ほおっておいて下さいよ。どうして僕をいじめるんです?」(12p)という主人公のセリフは、笑われる側の意識・悲哀といったものも読者に伝えているように思う。惨めな生活を送り、しかも現状を積極的に打破しようとしない主人公の姿は確かに(冷笑的な)笑いを催すが、このセリフには、何かしら戒めの気持ちを起こさせるものがある。私たちは、なぜ自分に迷惑をかけない人間までいちいち嘲ったりちょっかいを出したりせずに放っておくことができないのだろうか。優越感を得たいから?それなら、作中の官吏たちと大同小異ではないのか。官吏を批判的に描きながら、実は我々の内部にも官吏と通じる部分がある…ゴーゴリはそうほのめかしているように感じられる。この推測には、「検察官」に出てくる人々の媚びへつらう姿、それを利用して彼らを騙す者の心理が実は我々にも内在する「悪」であったことからも、強い確信を持つのである。
 
だから、この作品を見て単に笑ったり惨めな境遇を哀れんだりするだけでは一面的な理解に留まってしまうと思う。笑うだけ笑って、そして哀れむだけ哀れんで、なお裏側にあるものが感じられるものがあるはずだ。それは、「なぜ我々は彼を笑わずにはいられないのか」といった問いかけであり、また「それについて内省することなしに嘲る人間は、批判的に描かれている官吏たちと同じだ」という読者に突きつけられた鋭い刃ではないだろうか。ゆえに、本作を「悲劇」と位置づけてしまうと、チェーホフの「ワーニャおじさん」や「桜の園」をそうするのと同じ過ちを犯すことになり、また単に「喜劇」と捉えるなら、ゴーゴリの「検察官」をそう見るのと同じ視野の狭窄を起こすことだろう。多面的に見ればこそ、本作の奥深さをはっきりと感じ取れるのではないだろうか。


・「鼻」
身体の一部が無くなって駆けずり回る姿が面白い。ゴーゴリはもちろんそんな意識では書いてないだろうが、パンからいきなり鼻が出てきたり(64p)、鼻が別人格として服まで着て行動してるあたり(72p)、現代のSFの先駆けといった雰囲気も漂っている。また、超状的なことが起きて主人公が焦っているというのに、やけに理論的かつ冷静に判断・行動する他の人々の様が面白い。ゆえにわざとらしさが薄められて、事件のありえなさを浮き彫りにしているし、また主人公の慌てっぷりとうまい具合にギャップを作り出していると思う。

ところで、鼻は何を象徴しているのかということについて色々と議論になっているらしい。独立した存在として動く鼻が主人公よりも官吏としての位階が上(72p)であるのを思えば、主に虚栄心を象徴しているように思うのだが、さて日本と同じようにロシアでも鼻が尊大さを表すことがあるのだろうか。

※とはいえ鼻の言によれば、主人公が司法関係の官吏(8等官)なのに対して、鼻は文部系の官吏(5等官)らしい。鼻の性格を考える上で重要なこの職種の違いが何を意味するのかよくわからない。


・「狂人日記」
つまらないという意味ではないが、特に書くことがない。筒井康隆の「将軍が目醒めたとき」を連想した、というぐらいか。犬の手紙の内容とそれに対する主人公の悪態が面白い。


・「ヴィイ」
コサック社会の描写は面白かった。あと祈祷を行ったのが神学科ではなく哲学科の生徒だったのは意味ありげだ。彼の死んだ理由が「怖がったからだ」(217p)というのを深読みすれば、「色々考えすぎた」ということで哲学というものに対する批判的な意味合いなのかもしれない。例えば無口になったコサックに対する「哲学の徒」という表現(174p)も、哲学そのものへの意見ともとれる。

とはいえ、東欧のフォークロアに知識も興味も乏しいので淡々と読み終えたというのが本当のところ。まあゲームの「吸血殲鬼ヴェドゴニア」で北欧が出てきたので、多少は「へ~」と思ったが。

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