同性愛について考える

2006-01-30 21:42:32 | 感想など
同性愛について、理屈としてはともかく、生理的嫌悪感を持っているという人は多いと思う(私自身もそういう部分がかなりある)。ふと、ここで考える。嫌悪感が生じるのはなぜだろうか、と。雌×雄という自然の関係から逸脱しているからか?だとしたら、例えば避妊行為に対して、生理的嫌悪感は生じないのはなぜだろうか。

この疑問に対し、避妊は快楽追求が目的なので、それと出産(種の保存)行為を分別しようとする合理的なものである、といった反論が出るかもしれない。しかしそれなら、やはり同性愛と同じであるように思える。というのも、種の保存が目的ではない(それはしばしば快楽の追求と同義となる)という意味において、両者は全く共通しているからだ。

疑わしきは、ヒトに同性愛を嫌う本能のようなものが備わっているのか、ということである。もしそうでないのなら、たとえ生じた嫌悪感がどれほど生理的なものであろうとも、後天的に植えつけられたものに過ぎないということになる。ならばそれはいかにして生まれてくるのだろうか?例えば宗教の場合、性別というものが神聖な意味合いを持たされていることが多いので、同性愛がタブーとされる場合がよくある。その観念が現在も受け継がれている国や地域が少なからずあるだろう。あるいはやや曖昧に過ぎる言葉だが、「慣習」などによって禁じられている場合もあるだろう(もっとも、「慣習」が先で宗教がお墨付きを与えるなど、様々なパターンが想定されるが)。

この記事は答えを出すことが目的ではないので、ただ問題提起をするにとどめるが、過去に「近親相姦を考える」でも書いたように、禁じようとする行動原理とその基準、そして人間の生理的嫌悪感という問題は、よくよく考えてみると非常に面白いと思う。


※こういった生理的云々に関しては、「人はなぜ美しいがわかるのか」などの疑問とともに考えてみると面白い。もっとも、そう簡単に答えの出る話ではない(あるいは出ない)ので、白か黒かを求める人にとっては不毛な問いに思えるかもしれないが。
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