フラグメント197:海辺暮らしのむろみってぃ

2015-09-17 12:52:01 | フラグメント

2012/08/11

 

<人魚との付き合い方>

むろみさんとどのように致すかについて、胸が使えないとか鱗が痛いとか口ならば・・・とか言っているのを聞いて嘆息せざるをえない。ヤタガラスがヒントをくれてるのに、そのくらいしか思い浮かばないとはけしからん。

交尾に意識が集中しているから思考が閉塞するのであって、そこから解放されれば、奉仕も合わせてうなじ、脇、脇腹、へそなども充分魅力的な攻め場所ということに気付くはずだ。ちなみに俺は隅田さんのあのエロい髪を弄り倒したいでふ(;´д`)たとい監禁中でも、これだけは言っておきたい(`・ω・´)

 

<太陽を盗んだ男→復讐>

観念的な人間の独善性。他者から、深淵な何かがあるかのように誤解される場合も。異常性にはそれだけの理由がほしいから。傑作。表現法が秀逸。天皇主義=右の埋葬。かつ主人公が「極悪人」でないことを示す。序盤の引き込み。テレビ越しの革マル=左も風景。永山則夫を扱った1970の裸の十九歳との比較。参加はしないものの、熱狂というか祭りの気分は伝わってくる。要求するのがあれでしかない必然性。「腐りきった社会」への漠然とした怒り。ぶつける宛もなく。ハンバーガーショップならトレイをゴミ箱に捨てる程度で済むかもしれないが、社会となるとね。滅びの希求、ある意味よくわかる部分も。女がスッキリしたという感想の必然性。思想ではなく感染する。犯人視点の音楽もさすが。単純なヒーローとして描かない、成長もないし、往生際も悪い、あの中途半端な終わりがむしろいい。劇場予告がちょっち外れている。夢なんてない。ある意味それが悲喜劇性を。でもそれを藁えないことが重要。藤村操セカイ系、大正テロリズム、昭和維新の稚拙さ。リテラルにしか見ないからミスリード(他人の顔)。不全感。この作品に不快感を抱く人も少なからずいるだろう。これだけ大それたことをしてナイター?スッキリした?ふざけるな!と。その怒りは正しい反応。しかし、ゆえにこの作品は認められないというのなら、それはとんだ勘違い。主人公の幼さや独善性は意識されている。だからバランサーとして警部がいるわけやし。むしろそういう形でしか~ない時代状況をこそ描き出している。どちらもコミットするものではない。しかし三点・・・。後のオウム。アニメでもガンダム。ヤマトとの差異。逆襲のシャアがわかりやすいが、それが不全感によるものに過ぎないと。母性のグロテスクさ。ともあれそのような本作は今日にも全く問題なく通用する作品と言えるだろう。

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