続 精神主義という名の病

2015-09-19 12:20:26 | 本関係

「愛と暴力の戦後とその後」を読了。
結局のところ、この日本という社会が豊かにはなりつつも一歩も前に進まなかった原因は、敗戦の際に思ったことが「私たちはダメだった」ではなく、「私たちは悪かった」であったことに起因するのだろう・・・というのが読了しての感想である(後者の典型が、本文にも出てくる「真珠湾を奇襲攻撃したから原爆を落とされてもしょうがない」という意味不明な、しかし多くの人に共有されているらしい認識)。

 

何事にも様々な理由や背景というものは存在するのであって、全き善も、完全なる悪というのも実のところ見つけるのが難しい(たとえば「理解不能」なことでさえ、まさにそうであるがゆえに、そのような心の動きに「共感」するという人間が出てくるものだ)。ゆえに、「悪かった」という規定は、実はこんな背景があったとか他にも悪いことをしているヤツがいるとか、後になっていかようにも否定ができてしまう。まあハッキリ言えばそれはただのドグマであって、そういう土台の上にある平和主義など、所詮「平和を求めるファシズム」にすぎないのである。「鬼畜米英」が「一億総懺悔」へと大転換するのも、このような構造によるものであり、話す言葉が違っても根本のメンタリティは全く変わっていないと言える。

 

しかし、「私たちはダメだった」というのは違う。なるほど確かに、そこで掴めたかもしれない様々な勝利のチャンスや、あるいは負け戦でも行かざるをえない背景を取りざたすることはできる。しかしながら、最後には「しかし我々は完敗したのだ」という逃れようのない事実が最後には突きつけられるのであり、その下では構造の分析を避けることができない。「失敗学」とも呼ばれるそれは、最悪の予想をし、それを共有するという習慣の欠落した政府と社会に最も必要な視点だが、あの震災と原発事故を経験した今では言うまでもないことのはずだ。

 

もう一度繰り返すが、「私たちは悪かった」というドグマがインストールされたところで、「一億総玉砕」を唱えていたメンタリティは変わりなどしない。それはただ、同じPCのOSが入れ替わっただけのことだ(スペックは変わらない)。本来そこで「私たちはダメだった」・「なぜ我々は負けたのか」という見地に立たねばならないところを、終戦などという言葉に象徴的な誤魔化しで蓋をし乗り切ってきた限界が、今政治・経済など様々な面で露わになってきていると言えるだろう。

 

そんなことを再度思い起こさせてくれる一冊であった。白井聡の「永続敗戦論」と併せて読むことをおすすめしたい。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« フラグメント197:海辺暮... | トップ | flutter of birds:システム... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

本関係」カテゴリの最新記事