※「作品に対する反感は自己を知る絶好の機会」なども参照。
感覚は容易に(抽象的な)問いへと繋がるものであり、難しいことを扱うのは頭(=理性)で、直接的・日常的なことは身体(=感覚)が処理する、という具合に二項対立的な捉え方をするのは誤りである。例えば、非常にイライラするキャラクターから帰納的に「傍若無人な女キャラがムカつく」が出てきたし、そこから押し付けがましい人間が嫌いな理由にも言及した。
この間帰省した時に聞いた話だが、大学入試の英作文(の過去問)で「セーラームーンを見て感動した」という話をある学生が書いたらしい。それを見た人間は、かくの如き内容でありながら全く文法的ミスがないことに首を傾げつつ添削したとのことだった。
ここで、私達に笑いが起こる。別に色々考え込んだわけではない。純粋におかしいと感じたからだ。しかし、特に何も考えずに(=当たり前のこととして)笑ったからこそ疑問が湧いた。笑う理由、つまりその根底にある「当たり前」とは何か?
二つの理由が考え付いた。
1.セーラームーンといういかにもオタク的な内容であったこと
2.にもかかわらず英作文が完璧であったこと
まず1について考えてみる。もし感動の対象が、
「カラマーゾフの兄弟」だったら?
「ソドムの百二十日」なら?
「白い巨頭」なら?
「苺ましまろ」なら?
「脱走と追跡のサンバ」なら?
「ひぐらしのなく頃に」なら?
「ドラえもん」なら?
「ガルガンチュア物語」なら?etc…
果たして私達は笑っただろうか?笑うものと笑わないものがあるとしたら、その境界線は何だろうか?
次に2についてだが、英作文が完璧であることがなぜ笑いの材料になるのだろう?それはおそらく内容とのギャップだ。つまりは英語という(どこかきちんとした印象のある?)表現手段によって、そのようなオタク的内容が書かれたという落差が笑いを生み出しているのだ。
もしこの見立てが正しければ、ここからサブカルチャーとハイカルチャーという二項対立が今もなお頭の中で生きていることを確認できる。サブカルチャー(的なもの)とハイカルチャー(的なもの)の境界線が曖昧になってきているのはほとんど誰もが知っている話だが、知ってはいてもそれを理解できていないという実態を物語っているのだ。しかも私達は、アイロニカルに笑うことで、自分達の立場を相対的に高めようとするばかりか、自身の知識を理解だと誤認したまま過ごすという決定的な誤りを犯し続ける…
とこのようなことが一つの笑いから分析しうるのである。そしてこのような分析の材料となる問題意識を発掘する際、自分の反応に関して何も感じないような、つまり「自分はまとも」であるという認識は捨てるべきである。もっとも、このように書くと、「普通」=有害無益という主張に響くかもしれない。そこで次回は、「普通」の感覚を基盤にした違和感の萌芽と考察について扱っていきたいと思う。
感覚は容易に(抽象的な)問いへと繋がるものであり、難しいことを扱うのは頭(=理性)で、直接的・日常的なことは身体(=感覚)が処理する、という具合に二項対立的な捉え方をするのは誤りである。例えば、非常にイライラするキャラクターから帰納的に「傍若無人な女キャラがムカつく」が出てきたし、そこから押し付けがましい人間が嫌いな理由にも言及した。
この間帰省した時に聞いた話だが、大学入試の英作文(の過去問)で「セーラームーンを見て感動した」という話をある学生が書いたらしい。それを見た人間は、かくの如き内容でありながら全く文法的ミスがないことに首を傾げつつ添削したとのことだった。
ここで、私達に笑いが起こる。別に色々考え込んだわけではない。純粋におかしいと感じたからだ。しかし、特に何も考えずに(=当たり前のこととして)笑ったからこそ疑問が湧いた。笑う理由、つまりその根底にある「当たり前」とは何か?
二つの理由が考え付いた。
1.セーラームーンといういかにもオタク的な内容であったこと
2.にもかかわらず英作文が完璧であったこと
まず1について考えてみる。もし感動の対象が、
「カラマーゾフの兄弟」だったら?
「ソドムの百二十日」なら?
「白い巨頭」なら?
「苺ましまろ」なら?
「脱走と追跡のサンバ」なら?
「ひぐらしのなく頃に」なら?
「ドラえもん」なら?
「ガルガンチュア物語」なら?etc…
果たして私達は笑っただろうか?笑うものと笑わないものがあるとしたら、その境界線は何だろうか?
次に2についてだが、英作文が完璧であることがなぜ笑いの材料になるのだろう?それはおそらく内容とのギャップだ。つまりは英語という(どこかきちんとした印象のある?)表現手段によって、そのようなオタク的内容が書かれたという落差が笑いを生み出しているのだ。
もしこの見立てが正しければ、ここからサブカルチャーとハイカルチャーという二項対立が今もなお頭の中で生きていることを確認できる。サブカルチャー(的なもの)とハイカルチャー(的なもの)の境界線が曖昧になってきているのはほとんど誰もが知っている話だが、知ってはいてもそれを理解できていないという実態を物語っているのだ。しかも私達は、アイロニカルに笑うことで、自分達の立場を相対的に高めようとするばかりか、自身の知識を理解だと誤認したまま過ごすという決定的な誤りを犯し続ける…
とこのようなことが一つの笑いから分析しうるのである。そしてこのような分析の材料となる問題意識を発掘する際、自分の反応に関して何も感じないような、つまり「自分はまとも」であるという認識は捨てるべきである。もっとも、このように書くと、「普通」=有害無益という主張に響くかもしれない。そこで次回は、「普通」の感覚を基盤にした違和感の萌芽と考察について扱っていきたいと思う。
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