最近話題になっている新ブラックジャックによろしくを読んだついでに臓器移植の話。ただし、臓器移植を一つの(社会的・医療的)システムという観点で論ずるためには今の私はあまりに無知である。よってここでは、自分が死んだ場合の臓器移植について書くだけに留める(「死」の定義はさしあたって置いておく)。
「どうせ使わぬものなら人にあげる」
何もしなければ臓器や眼球は用をなさなくなる。それはゼロと同義だ。しかし臓器を提供すれば、おそらく一人、あるいは二人以上の人間が救われる。これを合理的と言わずして何と言おうか(やや性格を異にするが、古本や献血の例も挙げておきたい)。
このような見解に対し、「遺体の損壊の忌避」という考えを持ち出す人がいるかもしれない。なるほど遺体は単なる脱殻として扱われないのが常だし、また葬儀において死者の顔を見たりする儀礼が特に死者の刻印を強く残し、生者にとって明日への礎となる面もあるだろう(縛り付ける場合ももちろんあるが)。
しかしそれでも、今述べた事情は臓器や眼球を求める人々の希求の足元にも及ばないと私は考える。酷薄と思われるのを承知で書けば、私の遺族にはいずれにせよ(火葬による)骨が残る。ならば、消失してしまう臓器はそれを望むものに託しても決して不当ではない。
たとえそれが死刑囚のものであろうと「聖人」のものであろうと、臓器は同じ臓器。それがただ消し去られてしまうものであるのなら、必要とする者に与えるのがよいのだ。
※
こう書いていて、自殺する人間の臓器がそれを必要とする人たちに行き渡ればどれほど多くの人が救われるだろう、などと思った。全く世の中は上手く行かないものである。
「どうせ使わぬものなら人にあげる」
何もしなければ臓器や眼球は用をなさなくなる。それはゼロと同義だ。しかし臓器を提供すれば、おそらく一人、あるいは二人以上の人間が救われる。これを合理的と言わずして何と言おうか(やや性格を異にするが、古本や献血の例も挙げておきたい)。
このような見解に対し、「遺体の損壊の忌避」という考えを持ち出す人がいるかもしれない。なるほど遺体は単なる脱殻として扱われないのが常だし、また葬儀において死者の顔を見たりする儀礼が特に死者の刻印を強く残し、生者にとって明日への礎となる面もあるだろう(縛り付ける場合ももちろんあるが)。
しかしそれでも、今述べた事情は臓器や眼球を求める人々の希求の足元にも及ばないと私は考える。酷薄と思われるのを承知で書けば、私の遺族にはいずれにせよ(火葬による)骨が残る。ならば、消失してしまう臓器はそれを望むものに託しても決して不当ではない。
たとえそれが死刑囚のものであろうと「聖人」のものであろうと、臓器は同じ臓器。それがただ消し去られてしまうものであるのなら、必要とする者に与えるのがよいのだ。
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こう書いていて、自殺する人間の臓器がそれを必要とする人たちに行き渡ればどれほど多くの人が救われるだろう、などと思った。全く世の中は上手く行かないものである。
カードを作るとき、家族の同意が必要なのですが、親はやはりそうとう抵抗があったらしく説得が必要でした。
臓器移植が商業主義にはしったらいやですが、無償の譲渡ならいいのではないかと思います。