私は他人との話し方に迷ったら、ほとんどの場合敬語を使う。ただ、やはりというかそういう話し方は相手に距離を感じさせるらしい。なるほど今までの経験による限り、「タメ語」を織り交ぜるのが好まれるようだ。だとすると、私との比較に過ぎないのは確かだが、敬語に対して距離感・違和感を覚える人が多いと言えるだろう。
人は敬語によって距離や堅苦しさを感じる。これはわかりやすい。ただそうすると、昭和天皇の危篤状態~死の期間において(10代~30代の)若い世代が示した親近感ないし弱者へのいたわりの感情はどのように理解すればいいのだろうか(もちろん、そういう反応を示さなかった人もいたわけだが)。以前「天皇家への敬語」で書いたように、天皇家に対しては特殊な敬語(言い回し)が用いられており、敬語に対する(特に若い)人々の感覚からすれば、天皇(家)に対してもまた距離を感じるのが自然だと考えられる。にもかかわらず、皇居前に集まった若者達は昭和天皇に親近感を示し、その死を自分にとって身近な出来事になるよう意味づけしたのだ。そこにはどのような作用が働いていたのだろうか。
もっとも、この疑問には自分の感覚も大いに関係していると思われる。というのも私は、自分では敬語を頻繁に使いながらも、天皇家に対するマスコミの言葉遣いには強い生理的嫌悪感を覚えるのだ(聞いてて気持ち悪い)。つまり構図としては、「私=敬語○、天皇への親近感×」「若者=敬語×、親近感○」となっている。とすれば、親近感を示す若者たちにとっては、天皇家報道の言い回しは大して気にもならなかったか、あるいは天皇に親近感を抱かせる要素がそれに勝ったかのどちらかであろう。
いずれにしても、「天皇は、利用価値があるのならば存在してもいい」と考える私にとって、天皇に親近感を示した若者の反応は非常に興味をそそられる。今日では「タメ語」の領分が増えて敬語の違和感が増しているが、それとともに天皇観や報道用語への反応も変化したのだろうか?機会があれば考えてみたい問題である。
人は敬語によって距離や堅苦しさを感じる。これはわかりやすい。ただそうすると、昭和天皇の危篤状態~死の期間において(10代~30代の)若い世代が示した親近感ないし弱者へのいたわりの感情はどのように理解すればいいのだろうか(もちろん、そういう反応を示さなかった人もいたわけだが)。以前「天皇家への敬語」で書いたように、天皇家に対しては特殊な敬語(言い回し)が用いられており、敬語に対する(特に若い)人々の感覚からすれば、天皇(家)に対してもまた距離を感じるのが自然だと考えられる。にもかかわらず、皇居前に集まった若者達は昭和天皇に親近感を示し、その死を自分にとって身近な出来事になるよう意味づけしたのだ。そこにはどのような作用が働いていたのだろうか。
もっとも、この疑問には自分の感覚も大いに関係していると思われる。というのも私は、自分では敬語を頻繁に使いながらも、天皇家に対するマスコミの言葉遣いには強い生理的嫌悪感を覚えるのだ(聞いてて気持ち悪い)。つまり構図としては、「私=敬語○、天皇への親近感×」「若者=敬語×、親近感○」となっている。とすれば、親近感を示す若者たちにとっては、天皇家報道の言い回しは大して気にもならなかったか、あるいは天皇に親近感を抱かせる要素がそれに勝ったかのどちらかであろう。
いずれにしても、「天皇は、利用価値があるのならば存在してもいい」と考える私にとって、天皇に親近感を示した若者の反応は非常に興味をそそられる。今日では「タメ語」の領分が増えて敬語の違和感が増しているが、それとともに天皇観や報道用語への反応も変化したのだろうか?機会があれば考えてみたい問題である。
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