日本の支配者観と神観念2

2006-11-06 23:01:40 | 宗教分析
ここでは、前回の記事を補足する形で書いていこうと思う。


(「お供え物」、「ご利益」について)
まず始めに。「お供え物」や「ご利益」の話をわざわざしたのは、『拝啓マッカーサー元帥殿』の著者が表面的なことしか見ていないと感じたからだ。というのも、見返りを求めない贈物に対する著者の分析はせいぜい「贈物好きな民族性」だとか「強者へのおもねり」、あるいは前に述べたような「誠意ある献上」という程度であり、そこから先へ踏み込んでいない(そこで止まる原因は、著者が結局自分の「理」でしか分析していないところにあると思われる)。それでは結局のところ、「やっぱり日本人はダメだ」というような感覚的日本人論にしかならない。もちろん、現在の中元・歳暮の習慣からすれば、「贈り物好きな民族性」が的外れとは言えないし、また強者へのおもねりがあったのも確かだろう。しかしそういった原因があろうとも、マッカーサーという外来の存在に、しかも終戦間もない経済状況の中でわざわざ贈物をする精神性は、もっと深く分析してしかるべき対象だろう。でなければ結局、「強者におもねったり、わけのわからない贈物なんかしたりして…だから日本人はダメなんだ」という感覚的な結論に帰着するだけだ。著者はプロローグで「手紙が日本人の本質をくっきりと照らし出す」と述べているのだが、せっかく照らし出された本質なのだから、感覚的なコメントだけでなくもっと分析を加えるべきである。どうも本書は自虐的で皮肉な表現ばかりが目立つように思うのだが、それはマッカーサーの手紙そのもの以上にそれを分析する著者の姿勢にあるように私は思う。


(「有り難い」という民衆の天皇観について)
天皇を(絶対的な存在ではなくて)有り難いものと捉える民衆の視点は、天皇が政権によって神として権威付けされた明治から始まったのだろうか?『明治大帝』(講談社学術文庫)などで有名な飛鳥井雅道によると、江戸時代の京都の民衆にもそのような傾向が見られたという(記憶によれば、『岩波講座日本通史 17巻』1994に所収)。すると、「有り難い」という江戸時代の民衆の天皇観の中に尊皇攘夷思想に基づいた明治政府の公式見解が入り込んできた、というのが実情だったと思われる。とはいえ、これはあくまで京都の話にすぎない。時代・地域を拡大した天皇観の比較分析が必要だろう(まあもっとも、飛鳥井の論文が研究の端緒というような書き方だったから、今どこまで研究が進んでいるのやら、という感じだが)。


(権力者の神格化について)
支配者観についても補足しておくと、日本人にとって支配者の神格化は他国と比べて容易であったと思われる。というのも、多神教という土台があるだけではなく、様々な形で人が神として祀られてきたという現実があったからだ(菅原道真、楠木正成、徳川家康etc...権力争いに敗れた人物も神として祀られているのがおもしろい)。だから人々にとって、支配者の神格化は新しい神が一人増えるだけのことで、それほど驚くべき現象ではなかったと推測される。そして重要なのは、汎神論的土壌ゆえに日本人にとって神が身近な存在だったということだ。だからたとえ支配者が実際に神と位置づけられたとしても、それは彼が民衆にとってどこか遠い存在になるという結果を生まなかったのではないかと推測される。現在の我々には、神格化はともかく人が実際に神と位置づけられる現象は縁遠く、またキリスト教的価値観の影響もあって神はかなり遠い存在となっている。それゆえ戦前の天皇が現人神として位置づけられた話を聞くと、何かとんでもないことが行われていたように思い込んでしまうのだが、当時の民衆は神に対する精神的な垣根が非常に低く、むしろ(路傍のお地蔵様に対するような)親愛の情さえ持っていたのではないかと考えられる。こういった側面も見ていかなければ、民衆の天皇観は一部が強調されるだけで終わってしまうだろう。もちろん、天皇を絶対的存在として位置づける政府の公式見解やマスコミの報道姿勢などで天皇観は変化していっただろうし、生まれた頃から天皇を絶対的な現人神とする教えに触れてきた若者にとっては、垣根の低い神観念と天皇観は一線を画すものであったと推測される(※)。しかしそれでも、特に上の世代が持っていた神観念が民衆の意識や社会の動きとしてどのように表れたかを考える必要があるのではないだろうか。



途中から新たな価値観が入ってきたのと始めからそうだったのとでは、価値観への縛りの強さという点で大きな違いがあると思われる。これは例えば、始めから物が豊かな時代に生まれた私の世代と、貧しい時代を経験している祖父母の世代の物に対する価値観の乖離に明らかである。始めからそうだった人間にとって現状はどこまでも「当たり前」のことでしかなく、それを覆すのはかなりの経験や知識が必要になってくるのだ。

ちなみにこれは、「神道は宗教ではない」という憲法の内容及びそれに基づいた教育などから受けた影響の大きさの違いにも当てはまると思われる。始めからそういう土壌で生きてきた人は、特に疑いもなく「神道=非宗教」という図式を受け入れていたのではないだろうか。
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2 コメント

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知識の範囲 (かわぴょん)
2006-11-09 00:38:40
知識の守備範囲が違うと思うので、書く~。

 お中元やお歳暮は、かなり簡略化されておりまする。江戸時代はそれこそ、それだけに止まらず、季節の折々、子供の成長や婚礼・葬祭行事の度に贈り物が行ったり来たりしたのでござる。しかしながら、これらの行事は武士階級のしきたりだったので、明治になって身分階級が崩れた際に、平民はこぞって武家の真似をし(武士らしくて素敵じゃん)、逆に武家はこれ幸いと止めたのでござる(これらの贈り物には無駄にお金がかかるため、幕末のころにはかなりの数の武士が貧乏になってたのでござる。でも武士は食わねど高楊枝なので、それでも武士であり続ける為に、やり続けなければならなかったのでござる。皆がやることをやらない人間は仲間外れになるのだ)。

 あと天皇の有り難さについては、幕末だと水戸学を外せません。天皇が至上であり、将軍家も天皇に従う武家の棟梁という考え方の水戸学がなければ明治維新は成らなかったと思われます。
 逆に言うと、公家の岩倉具視などは、自分に都合の悪い孝明天皇を暗殺し(という説が根強いし、証拠も数多い。私も岩倉による孝明天皇暗殺説を支持)、次の明治天皇を立てたりという、天皇を道具としか見てなかった模様。
 逆に徳川慶喜は、それでも天皇に逆らう賊軍になるのは嫌だと圧倒的に優勢な軍を持ちつつも撤退してしまうので、価値観というのは人それぞれでござる。
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参考になりました (ボゲードン)
2006-11-12 20:55:35
(お中元&お歳暮について)

なるほど。参考になりました。

(天皇観について)

確か田中彰の『明治維新』だったか、大久保利通なども天皇を利用価値のある権威という捉え方をしていたみたいですね。ゆえに、「佐幕派=天皇を重視しない」「討幕派=天皇を重視」といった見方は短絡的だと思います。
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