『拝啓マッカーサー元帥様』(岩波現代文庫)の第七章「感謝の贈物」では、様々な人が果物、ステッキ、着物など実に様々なものを手紙とともに送っていることが述べられている。そこでふと疑問に思ったのは、
当時の経済事情は厳しかっただろうに、何でこの人たちはこんなに色々なものを送ったんだろう?
ということだ。いちおう理で考えれば、「何らかの見返りを求めて」というのが最もわかりやすいし、世界的にもかなり通用する理由だろう。しかしながら、送り主の目的がそこにはないらしいのだ。少なくとも掲載されている手紙の文面を見ていくと、よほどの曲解でもしない限り見返りを求めての贈物と解すのは不可能である。よって、蔵田キツという人の(干し柿の)贈物に対する「誠意ある献上」という筆者の評価が、少なくとも掲載された手紙に関しては広く当てはまるものだと言える。
さてそうすると、「誠意ある献上」の動機付けは一体何だろうかという疑問が今一度出てくるわけだ。私は現代の歳暮・中元や年賀状すらアホらしいと思っている人間なので、特にこの必要のない贈物の意味がつかみかねた。そこでぱらぱら読みながら考えていると「お供え物」という考えが浮かび、その見方で色々なことが説明できるように思えてきたのだ。まず、支配者に物を上げることを(この場合強制ではないが)「税」のような感覚で考えてしまったのが私の間違いだったのだ。そうではなくて、まるで道端のお地蔵様にお供え物をしてお地蔵様を助けつつ(往々にして)ご利益も期待するがごとく、ありがたい存在(=マッカーサー)に贈物をして彼の健康を祈りつつ、ご利益を期待したのだろう。ここで重要なのは、求めるとしてもそれは利益という(世俗的な)形ではなく、あくまで(より宗教的な)「ご利益」なのだという点にある。さて、これだけでは議論として穴だらけなのだが、ここでもう一つ重要なのは「すでにご利益があった」という感覚を(少なくとも書面を見る限り)皆が共有しているという事実だ。では、彼らの思う「ご利益」とは何だったのか?実はそれが、アメリカ占領による軍閥や財閥の解体、平和の到来なのであった。これらに対する感謝の念は、ほとんど全ての手紙の冒頭で述べられており、その感謝の印として(ものを)贈るのだという内容になっている(もちろん手紙の表現にリップサービスがないとは言わないが、当時の経済事情を思えば、わざわざ物を贈るのにはそれなりの動機付けが必要だったことは確かだろう)。要するに、日本人はアメリカの占領政策という「ご利益」を被ったのであり、マッカーサーへの贈物はその感謝の「お供え物」なのであった。ゆえに、手紙には見返りを求めるような表現もなく、むしろ親愛の情が表されているのだと推測される。
ここには、日本人の支配者観、より正確に言えば神観念がよく表れているように思う。周知のように、マッカーサーは自らを天皇に代わるような存在として演出していたわけだが、神格化された彼が、民衆にとってはキリスト教的・絶対的な神というより汎神論的な神と受け取られたことは想像に難くない(※)。それゆえにこそ、写真さえまともに見たことのない人が多かったにもかかわらず、まるで路傍のお地蔵様と同じように親近感があって親愛の情も湧き、占領という「ご利益」を感謝する「お供え物」を贈りさえしたのだろう。
そのような神との親近感を考えたとき、第四章「護られよ陛下を」で掲載される天皇が(戦犯として)裁かれることに反対する手紙の内容が、多少は理解できるようになった気がした。手紙に書かれているのは主に天皇に戦争責任はないという意見なのだが、その端々には「天皇を裁くのは可哀相」というトーンが感じられる。そこに見えるのは、高遠な何かを守ろうとするよりもむしろ、身近な存在をいたわるような感情である(ただ、畏れ多いといった表現は出てくるが)。今まで私は、戦前の人たちは天皇に「畏れ多い」という感覚を専ら持っていたと考えていたが、それは政府の権威付けという公的なイメージに引っ張られ過ぎた見方だったのかもしれない。天皇の代わりとして(誤解をおそれずに言えば、要は現人神として)君臨したマッカーサーもまた親近感の持てる存在として観念されていたことも併せて考えるなら、民衆にとって「現人神」とは何であったのか、それを再考する必要があるように思う。また、栗原彬也編『記録・天皇の死』では、天皇の危篤~死に際して10代後半から30代前半の人たちが彼を老人=弱者と見なして気にかけ、いたわりの気持ちを表明していたことが書かれている。そこでは前の世代との繋がりは強調されず、そういった感情の動きが「戦争を知らない世代」に突発的に生まれたものであるように述べられていたと記憶しているが、上で述べた手紙の内容からすれば、実は戦前(少なくとも戦後まもない頃)の天皇観にもそのような底流があったのかもしれない。ともあれ、戦前の天皇観が絶対的存在への単なる畏怖ないし崇敬のみでは説明できない複雑な側面を持っていたらしいという点を掘り下げて考える必要があるのは確かだろう。
もちろん、天皇のためと思って戦争などで死んでいった人間も数多くいるし、天皇への崇敬が強烈に表れている刊行物などを我々は容易に見出すことができるのであり、また不敬罪の適応なども含めて天皇を絶対者として位置づける思想が強く時代を支配していたのは確かだ。しかし、それを軸としながらも、より民衆意識の深みに入っていこうと努力しなければ、いつまでも政府の公式見解=民衆意識という公式を脱することはできない。ただでさえ我々にとって戦前の天皇観は厄介な代物であるが、そこに一歩踏み出さなければ戦前を理解することはできないだろう。いや、昭和天皇に対する「戦争を知らない世代」の観念が戦前のものと繋がっているのであれば、その考察なしに昭和~平成さえも理解できないのではないか?今そのように考えれている。
※
今でこそありえない話だが、政治権力者が実際に神として扱われるという現象はそれほど珍しいものではなかった。例えば明治政府は楠正成のような朝廷に味方した武士などを神として祭るなどした。その他徳川家康なども自らを神とした権力者である。
当時の経済事情は厳しかっただろうに、何でこの人たちはこんなに色々なものを送ったんだろう?
ということだ。いちおう理で考えれば、「何らかの見返りを求めて」というのが最もわかりやすいし、世界的にもかなり通用する理由だろう。しかしながら、送り主の目的がそこにはないらしいのだ。少なくとも掲載されている手紙の文面を見ていくと、よほどの曲解でもしない限り見返りを求めての贈物と解すのは不可能である。よって、蔵田キツという人の(干し柿の)贈物に対する「誠意ある献上」という筆者の評価が、少なくとも掲載された手紙に関しては広く当てはまるものだと言える。
さてそうすると、「誠意ある献上」の動機付けは一体何だろうかという疑問が今一度出てくるわけだ。私は現代の歳暮・中元や年賀状すらアホらしいと思っている人間なので、特にこの必要のない贈物の意味がつかみかねた。そこでぱらぱら読みながら考えていると「お供え物」という考えが浮かび、その見方で色々なことが説明できるように思えてきたのだ。まず、支配者に物を上げることを(この場合強制ではないが)「税」のような感覚で考えてしまったのが私の間違いだったのだ。そうではなくて、まるで道端のお地蔵様にお供え物をしてお地蔵様を助けつつ(往々にして)ご利益も期待するがごとく、ありがたい存在(=マッカーサー)に贈物をして彼の健康を祈りつつ、ご利益を期待したのだろう。ここで重要なのは、求めるとしてもそれは利益という(世俗的な)形ではなく、あくまで(より宗教的な)「ご利益」なのだという点にある。さて、これだけでは議論として穴だらけなのだが、ここでもう一つ重要なのは「すでにご利益があった」という感覚を(少なくとも書面を見る限り)皆が共有しているという事実だ。では、彼らの思う「ご利益」とは何だったのか?実はそれが、アメリカ占領による軍閥や財閥の解体、平和の到来なのであった。これらに対する感謝の念は、ほとんど全ての手紙の冒頭で述べられており、その感謝の印として(ものを)贈るのだという内容になっている(もちろん手紙の表現にリップサービスがないとは言わないが、当時の経済事情を思えば、わざわざ物を贈るのにはそれなりの動機付けが必要だったことは確かだろう)。要するに、日本人はアメリカの占領政策という「ご利益」を被ったのであり、マッカーサーへの贈物はその感謝の「お供え物」なのであった。ゆえに、手紙には見返りを求めるような表現もなく、むしろ親愛の情が表されているのだと推測される。
ここには、日本人の支配者観、より正確に言えば神観念がよく表れているように思う。周知のように、マッカーサーは自らを天皇に代わるような存在として演出していたわけだが、神格化された彼が、民衆にとってはキリスト教的・絶対的な神というより汎神論的な神と受け取られたことは想像に難くない(※)。それゆえにこそ、写真さえまともに見たことのない人が多かったにもかかわらず、まるで路傍のお地蔵様と同じように親近感があって親愛の情も湧き、占領という「ご利益」を感謝する「お供え物」を贈りさえしたのだろう。
そのような神との親近感を考えたとき、第四章「護られよ陛下を」で掲載される天皇が(戦犯として)裁かれることに反対する手紙の内容が、多少は理解できるようになった気がした。手紙に書かれているのは主に天皇に戦争責任はないという意見なのだが、その端々には「天皇を裁くのは可哀相」というトーンが感じられる。そこに見えるのは、高遠な何かを守ろうとするよりもむしろ、身近な存在をいたわるような感情である(ただ、畏れ多いといった表現は出てくるが)。今まで私は、戦前の人たちは天皇に「畏れ多い」という感覚を専ら持っていたと考えていたが、それは政府の権威付けという公的なイメージに引っ張られ過ぎた見方だったのかもしれない。天皇の代わりとして(誤解をおそれずに言えば、要は現人神として)君臨したマッカーサーもまた親近感の持てる存在として観念されていたことも併せて考えるなら、民衆にとって「現人神」とは何であったのか、それを再考する必要があるように思う。また、栗原彬也編『記録・天皇の死』では、天皇の危篤~死に際して10代後半から30代前半の人たちが彼を老人=弱者と見なして気にかけ、いたわりの気持ちを表明していたことが書かれている。そこでは前の世代との繋がりは強調されず、そういった感情の動きが「戦争を知らない世代」に突発的に生まれたものであるように述べられていたと記憶しているが、上で述べた手紙の内容からすれば、実は戦前(少なくとも戦後まもない頃)の天皇観にもそのような底流があったのかもしれない。ともあれ、戦前の天皇観が絶対的存在への単なる畏怖ないし崇敬のみでは説明できない複雑な側面を持っていたらしいという点を掘り下げて考える必要があるのは確かだろう。
もちろん、天皇のためと思って戦争などで死んでいった人間も数多くいるし、天皇への崇敬が強烈に表れている刊行物などを我々は容易に見出すことができるのであり、また不敬罪の適応なども含めて天皇を絶対者として位置づける思想が強く時代を支配していたのは確かだ。しかし、それを軸としながらも、より民衆意識の深みに入っていこうと努力しなければ、いつまでも政府の公式見解=民衆意識という公式を脱することはできない。ただでさえ我々にとって戦前の天皇観は厄介な代物であるが、そこに一歩踏み出さなければ戦前を理解することはできないだろう。いや、昭和天皇に対する「戦争を知らない世代」の観念が戦前のものと繋がっているのであれば、その考察なしに昭和~平成さえも理解できないのではないか?今そのように考えれている。
※
今でこそありえない話だが、政治権力者が実際に神として扱われるという現象はそれほど珍しいものではなかった。例えば明治政府は楠正成のような朝廷に味方した武士などを神として祭るなどした。その他徳川家康なども自らを神とした権力者である。
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