「そんなに生きるのが嫌なら一人で死ね」 (→死のうとしないならどうするのか?)
「親(家族)は一体何をしているんだ!」 (→コントロールできないならどうするのか?)
という言い回しはもはやクリシェのレベルだが、それらを突き詰めるとどういう結末になるのかを示したのが、今回の元次官による息子の殺害事件だ。こういう事態を見て驚愕している人は、先のようなクリシェ、ないしは「自己責任」というものを突き詰めるとどういう事態になるのか、まるで理解していないのだろう。
まあそれはともかく、今回の事件で再認識されるのは、子どもを持つという「リスク」であろう(実際、引きこもりの子どもを持つ親からの相談電話が増えているそうだ)。なるほど自分自身のことであれば、自分でコントロールできるし、またすべきだというのもまあわかる(ただし、依存症含めそれが全て「心の持ちよう=精神力の問題」と考えて行動すると破滅に向かうだけだが)。しかし、パートナーも子どもも、他者=コントロール不可能な存在である。それにもかかわらず、旧来のイエ制度的感覚の名残なのか、そういう前提は認識されておらず、家族の責任という方向に話が向かいやすい(正しくは、子どもも含めかつては共同体の中に組み込まれていたのであり、共同体が崩壊・衰退した今でも旧来のものさしで評価するのは、実体にそぐわないと言える)。こうしてコントロール不可能な存在まで自己責任の範疇に入れられるがゆえに、子どもは「リスク」になる、というわけである。
とするなら、その困難な状況を踏まえてもなお出産・育児するのはよほど肝の据わった人たちか、はたまた将来の計算ができない人たちのいずれかのみ=奇特な方々ということになり、ここに経済的衰退の予兆という要素も加われば、出生率が下がるのはむしろ合理的振る舞いの結果として当然と言えるだろう(ちなみにだが、「孤独死を恐れるという理由で子どもを作る」のなら、二人産む必要はないわけで、結局人口減少は止められない。つまり経済的余裕があるか、計算ができないほど愚かであるかのどちらしか、二人以上産む必然性はない)。
皮肉めいた話をしているように聞こえるだろうが、以上から私が言いたいのは、自分の愛する人とともに愛する者を産み・育てたいという欲求(これは必ずしも論理的なものではない)を多くの人が持ち、それが叶えられやすい環境整備(これは論理的・合理的なもの)を真剣にしていかないのなら、人口減少や少子高齢化に歯止めをかけるのは極めて困難だということである。
少なくとも、冒頭のような薄っぺらい自己責任論を叫んでいるだけなら、それはただの不安の表明を超えて、社会をさらに衰退・崩壊の方向へと導くだけだろう、とそのように思うのである。
【補足】
川崎の通り魔事件であれ練馬の息子殺害事件であれ、社会との繋がりが希薄な存在が問題の軸になっている。このような状況に陥ったことに関して、全て周囲の環境に問題があり本人は悪くない、などと言うつもりは微塵もないし、そもそもそこまでの情報を私は持っていない。
しかし、そういった存在の手当て・包摂といった視点もそうだが、そういう存在を作る要因となりうるもの、すなわち会社でのパワハラや学校などでのいじめ問題に批判的視座をもち、数を減らす体制づくりが必要である、といった視点が管見の限り全くと言っていいほど出てこないのは私には不思議でしょうがない(というか、そういう視点を提起しても、「それによってドロップアウトした存在がみんな凶悪犯罪を犯すわけではない」などの意見で否定される。しかし、これを病気に置き換えて考えてみてほしいのだが、たとえば「結核にかかった人間が全て死ぬわけではない」という理由で治療が不要だなどと言う人がいるだろうか?少しでも死亡のリスクを減らすために全力を尽くすのが、生命尊重という意味でも、社会の秩序・衛生状態のためにも重要と考え行動するのが賢明な人間というものだろう。どうしてそそのようなスタンスが社会的包摂については共有できないのか、非常に大きな疑問である)。
つまりおしなべて「すでに壊れた人間をどう処理するか」とでもいうべき短絡的な対症療法ばかりで、私が今回に限らず跳梁跋扈する自己責任論について批判的なスタンスを取り続けている理由となっている。
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