時間がない中で書きたいことが溜まってくると、脳内がハイスピードでカオスになってくるが、これからさらに忙しくなるならこの状況を如何せん??せや、そのまま文章にしたろ(゜∀。)!てな企画が今回の記事でございます。
シャートブリアンは美味しいとか、ダイヤモンドは美しいといった評を聞くと、いかにそれが正しくとも、当たり前のものを殊更に口にする、すなわち物事をよくわかっていない人なのではないか?という疑いを相手に抱かせてしまいがちである。兎毬まりを「かわいい」と殊更に評するのは、それに似たような行為と言える。
つまり、その正当な評価によって、むしろ私の職見が問われてしまうてことだなや。だって、これですよ?
見る度に😇😇😇な感じで、最近はトゥメリサムネが人口爆発を止めんとする自然界のザラキーマ(あるいはサムネザラキ)な可能性すら微レ存と思うようになっている小生であります(・∀・)
さて、今さら言うまでもないことだが、兎毬まりの中の人は「おじさん」とされる(まあ「成人男性」と表現した方が正確か)。これを自分から積極的に言っているところが興味深いのだが、もはや「自分をおじさんだと思っている女児」という評がテンプレ化しているほどおじさん要素は皆無で、ある意味エンターテイメントとして一つの完成体に到っている、とさえ言えるだろう。なお、本人は自分の素で振る舞っているだけとも言っており、実際そうでなければ俄には信じがたいほど、ジェラピケを始めとする嗜好や立ち居振舞いには見た目とのズレ=「隙」がない。もちろんそれがどれだけリアルを反映しているのかは確かめようがないが、少なくともガワとボイチェンが揃っても、余人が「兎毬まりになる」ことはラクダが針の穴を通るよりも困難を極めるだろう。そのような認識は、実際の兎毬と邂逅した者たちの証言、特に歌衣メイカ氏が半ばネタを装いながらテンプテーション(あるいは赤「とんらん」状態)された様子を見るに、ますます強まるのである。
高身長といった情報も踏まえると、たとえばこのようなビジュアルをされているのかもしれない(念のため言っておくと、兎毬まりとは無関係な方です。あと「さわやか会社員」いっぱいちゅき😍)。だとしたら兎毬と別の意味でもギャップがあって、その現身に会い見えた人々が不思議な感慨をもってその姿を語るのもむべなるかなと言えるだろう。
なお、今日の状態はいきなりできたわけではない。初期のおずおずとした大人しめな喋り方(ただし好きなことを話す際に今の片鱗は見られる)、中期の「メスガキ」を意識したムーブ(パーカー兎毬)、そして後期(円熟期)の元気だが洗練された今日の姿という具合に、少なくとも三期に分けることができる。彼女なりに様々方向性を模索した結果、現在の立ち居振舞いが完成したと言えそうだ(振る舞いが自分の素だという兎毬の言葉に沿うなら、表現方法を変えた、というのがより適切な説明かもしれない。なお、これはもしかすると「徹底したRPによるガチ恋対策の側面もあるのでは?」と私は考えている)。
この特徴は、兎毬まりが生まれるきっかけとなった魔王マグロナと比べるとわかりやすい。
彼女の最初期を詳しく知っているわけではないが、それでもゆったりのんびりした話し方は現在でも継承されており、良くも悪くも未完成というか「素そのもの」という印象を受ける(初期兎毬と似て、後期兎毬と対照的)。そのふにゃふにゃな感じがある種の愛らしさを醸成して(共演した緑仙のように)彼女に惹き付けられるのかもしれない。
このように考えてくると、そもそも私的「かわいい」Vtuber選という題名にした意味、すなわち「かわいい」の多様性に話がつながってくる。つまり、色々なかわいさがあるのであって、ポンコツさが「かわいい」場合もあれば(例:魔王マグロナ、さくらみこ)、ギャップに「かわいさ」を感じる場合もあるし(例:加賀美ハヤト)、元気のよさがほほえましい場合もある(例:天野ピカミィ)。そして兎毬まりは、(多少誤解を恐れずに書けば)完成された立ち居振舞いに「かわいさ」を感じると言えるのではないだろうか。
え?お前兎毬が素で振る舞ってると言うたやんけ!?と訝しく思われるかもしれない。これは要するに「素」というものの考え方である。彼女の配信を見るに、トークの上手さ、ゲームの上手さ、相手への気遣いといった、およそ全方位的なスキルの高さが感じられることにおそらく異論はないだろう(とはいえ中野相手では結構突っ込みの鋭さが増しているあたり、誰にでも同じような対応をするのではなく、距離感が絶妙とでも言えようか)。要するに相手を見てきちんと言葉遣いや言い方を選んでいるわけで、その意味では単純に「素」のままで応対しているわけではないし、一方そのような人との接し方が自身のナチュラルな姿という意味で「素」なのだろう、ということだ。
兎毬まりとそれを巡る分析は、「ペルソナ」とそれにまつわる「遊び」の話にも繋がる。それは例えば、「Vtuberなんてガワを被ったニコ生主に過ぎない」という意見や、それにもかかわらずこれだけその存在が大きくなり始めていること、あるいはもう少し話を広げればアバターやキャラ的人間関係にも通じるし、それはメタバースの可能性(リアルな世界よりやれることが広がる)と不可能性(そこでも不毛な足の引っ張り合いやマウンティングはなくならない)といったことにもつながっていくだろう。
あるいはそもそも「真実」とその価値として考えるなら、以前から話題に上げている化粧を当然のものとみなしながら整形を否定する欺瞞、ルッキズムへの批判とその限界などにも波及しうる(外見至上主義の批判は理解できるとしても、そこから視覚情報に囚われる傾向を超越できると考えるのは愚の骨頂である。というのも、私は少なくとも「相手に不快感を与えない身だしなみなども不要」のような言説を目にしたことがないからで、結局それは、人間が視覚情報に縛られ、そこからプラス・マイナス評価を引き出すことを認めざるをえない、と言っているようなものだからだ。要するに、ルッキズム批判はキュニコス学派的なものにまではなりえない、と言えよう)。
まあそんなわけでございますから、踊らにゃ損損!とばかりに作られたハリボテを楽しむに如くはなし、と述べつつこの稿を終えたい。
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