講談社学術文庫版『とりかえばや物語』の第一巻を読み終える。
細かい話はさておき、読んでみて性同一性障害への興味が湧いた。機会があれば色々調べてみたいと思う。ところでこの興味をよくよく分析してみると、狂気と正常、常識と非常識、「ふたなり」、近親相姦(いとこはなぜ法的・道徳的に許されるのか、など)といったものへの問題意識と通底するものがあるのかもしれない。もしこの見方が正しいのなら、それはおそらく「境界線」という共通性だろうが、この方向性で色々調べてみるのもおもしろそうである。
ところで内容について妙に気になった点を一つ。中納言(女)が妻とヤらないのはわかるとしても、東宮(女)のもとへ参内して間もない内気な姫君(男)が、それほど時を経ずに男として東宮に迫る描写は意外な印象を受けた(随分描写が端折られており、中納言の語らいの描き方とは対照的)。おそらく中納言との対比なのだろうが、あまりに内気なため(親が)家から出さなかったという位の人なのだから、ちょっと展開が強引過ぎる気がする。まあ少し穿って考えるなら、見た目や性格がどうあれ、男とはそういう抑えのきかない生き物だ、というメッセージが込められているのかもしれないが(笑)また、もしこの推測が正しいなら、そういった男性性の発露を描くことで、色々事情はあっても最終的には姫君が男に戻っていく流れに必然性を与えようとしているのかもしれない。
細かい話はさておき、読んでみて性同一性障害への興味が湧いた。機会があれば色々調べてみたいと思う。ところでこの興味をよくよく分析してみると、狂気と正常、常識と非常識、「ふたなり」、近親相姦(いとこはなぜ法的・道徳的に許されるのか、など)といったものへの問題意識と通底するものがあるのかもしれない。もしこの見方が正しいのなら、それはおそらく「境界線」という共通性だろうが、この方向性で色々調べてみるのもおもしろそうである。
ところで内容について妙に気になった点を一つ。中納言(女)が妻とヤらないのはわかるとしても、東宮(女)のもとへ参内して間もない内気な姫君(男)が、それほど時を経ずに男として東宮に迫る描写は意外な印象を受けた(随分描写が端折られており、中納言の語らいの描き方とは対照的)。おそらく中納言との対比なのだろうが、あまりに内気なため(親が)家から出さなかったという位の人なのだから、ちょっと展開が強引過ぎる気がする。まあ少し穿って考えるなら、見た目や性格がどうあれ、男とはそういう抑えのきかない生き物だ、というメッセージが込められているのかもしれないが(笑)また、もしこの推測が正しいなら、そういった男性性の発露を描くことで、色々事情はあっても最終的には姫君が男に戻っていく流れに必然性を与えようとしているのかもしれない。
特に私のおススメする名シーンは、やっぱり女主人公が宰相の中将に女だとばれて手篭めにしてしまう、というところと、女主人公が妊娠する、とか、女主人公が宇治から姿を消すなどが私は好きですね。
女君と宰相の中将親子の関係は物語に微妙な陰影を残していますよね。中宮となって何不自由ない女君、位人身を極めた男君という完全なハッピーエンドに見えるだけに、親子と名乗れない二人や女君を失ったショックを今だ忘れられない宰相の中将の姿は際立っているように思います。そういった忍耐の上に栄華と幸福は成り立っているのだ、と作者は言っているように感じられます。