オカルトと「無宗教」:自由の奨励と集団の忌避

2007-07-02 01:45:23 | 宗教分析
宗教は、選択を放棄するがゆえに自由を奨励する時代では忌避されるという前回の記事に対し、宗教は葛藤や数々の疑問・苦悩との戦いを内包するものであり、そのような見方は一面的であるとの批判が出るだろう。なるほど確かに、何が罪なのかと言った問いは宗教には付き物だし、またそういった事情ゆえに歴史の中で数多くの宗派(分派など)が生まれてきたのであった。しかし、「無宗教」を分析する際に宗教的かどうかではなく宗教に属しているかという認識が問題であるのと同様に、宗教離れを分析する際、宗教の実態以上に宗教に対する人々のイメージが重要なのである。


そして日本人の宗教に対するイメージは、恐ろしく貧しいものであると推測される。なぜなら、イメージどころかそもそも基礎的な知識さえ教えられていないからである(これは通常マスメディアや教育を通して蓄積されていくものだ)。人はえてして自分の理解できないものを忌み嫌うが、知識の欠乏している宗教もまたその一列に加わっていると見て相違ない。そして、何かを信仰するという行為自体がそもそも大なり小なり選択の放棄を伴うから、自由が奨励される中では、ますます宗教は遠ざけられる。何か非合理的な理由で非合理的な存在を信じて選択を放棄すること…信仰はそのようなものと捉えられている。であれば、そもそも選択を放棄することが「自由」に反する上に、そうする理由と対象が(知識不足も手伝って)理解不能なら、その教義や信仰に対して好印象を抱けというほうが無理な話である。まして教団ともなれば、選択の放棄を行う人間達が独自に規律などを定めてさらに選択を狭め、束縛の中に生きる集団と認識されるわけだから、自由を奨励する(選択肢の多いことを是とする)社会にあってその存在が歓迎されないのは必然的なことと言えるだろう。


日本の「無宗教」は、学校教育やマスメディアの提示する知識の方向性と、そもそも絶対的な情報量が少ないことによる無理解・誤解⇒嫌悪感の醸成という流れが要因の一つであると考えられる(※)。また価値観の多様化が社会の個別化傾向を生み出しているとすれば、集団への忌避が教団への忌避とほぼ重なるのではないだろうか。特に戦後は「自由」が奨励されることによって、選択の放棄が不可避である宗教は意識的・無意識的に忌むべきものと認識されてきた状況があると思われる。要するに、「自由」の奨励と集団の忌避、そして宗教に対する知識の欠乏が、日本人の宗教への帰属意識の欠落つまり「無宗教」という状況を生み出したのだろう。こうして、オカルトといった「選択可能なもの」への興味・実践と、一般的な宗教つまり「選択を放棄する(ことが必要だと思われている)もの」への忌避が共存することになる。超越的なものへの興味を持っていても、宗教のような「柱」は求めていないのだと言える(※2)。


なお、近代以降奨励されることになる「平等」の観念もまた、日本人の「無宗教」に関係があると考えている。次回は、それについて述べようと思う。



ちなみに言えば、マスメディアの宗教に対する報道姿勢は国家神道の前例が認識されるようになった戦後ばかりを見るべきではなく、新聞による明治期の蓮門教や天理教の批判キャンペーンなども考慮する必要がある。詳しくは井上順孝『新宗教の解読』53~81pなどを参照。


※2
そうすると、日本人の「無宗教」の要因として挙げられる(つまり宗教に対置される)物質至上主義とオカルトが、実際には共存しうることになる。この見方が正しければ、日本の物質至上主義とは消費の奨励と物質への霊性の読み込み(アニミズム)が混在した「アニミズム的物質至上主義」とでも呼ぶべきなのかもしれない。
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