私は今まで「共感などというものは存在しない」ということを再三にわたって述べてきたが、これに対して違和感や反感を覚える人もいると思う(関連する記事として「作品を『読む』ということ」や「価値観の多様化と『共感』」などを参照)。そこで今回は、予測される疑問に対しての答えを提示するという形式で話を進めていきたい。
まず読者の中には、批判の対象になっているのが共感そのものなのか、それとも「共感」という語を誤って使う人々なのか、という疑問を抱いた人がいるかもしれない。前者では共感という言葉にそもそも問題があり、後者ではその使い方に問題があるわけだから、確かにこれは明示しておく必要がある。そこで広辞苑で<共感>の項を見ると、以下のような説明がなされている。
*************************************************
(sympathyの訳語)他人の体験する感情や心的状態、あるいは人の主張などを、自分も全く同じように感じたり理解したりすること。同感。「―を覚える」「―を呼ぶ」⇒感情移入
*************************************************(強調部分は筆者による)
この語義を見るに、共感の語は正しく使われており、ゆえに私の批判は共感の語そのものであると言って差し支えない。以下、この共感の語義に拠りつつ批判を展開していこう(辞書的意味と人々が使用する共感の語義にズレがないと判明したので、以降は共感を全てカッコなしで表記する)。
引用したように共感は「全く同じように感じたり理解したりすること」と書かれているが、こんな状態が果たしてありえるだろうか?「~に行きたい」「…が嫌い」「―はおもしろかった」など色々な感覚や欲求の中で我々は生きているのだが、「なぜその場所へ今行きたいのか」「どうしてその人が嫌いなのか」「どうしてその本がおもしろいと思うのか」といった感覚・欲求の源泉を理解していないばかりか、理解しようとさえしていないように思える。「おもしろい」一つとっても、主人公の性格、物語の展開、話のプロットなど様々な「おもしろい」があり、おそらくはその複雑な組み合わせによって「おもしろい」は成立している。しかしながら、ほとんどの人はその事実を深く考えないだろうし、あるいは知ってはいても、それを考察しようとはしない(というのも日常は感覚の連続だからで、一つ一つにかかずらっていては生活が成立しないからだ。人間の自らの感覚を100%理解することはそもそも不可能なのである)。その中で、同じくその作品を「おもしろい」と言う人がいる。その「おもしろい」は全く同じだと言えるのか?言えるはずがないのだ。自分の感覚の拠り所すら理解していないのだから。要するに共感とは、「同じようなことを言っているから同じことを感じたはずだ」あるいは「見た感じ似たような反応だから同じことを感じているに違いない」という勝手な決め付けに過ぎないのである。繰り返すが、自分の感覚を100%理解している人間はこの世に存在しない。相手もまた然りである。その中で、相手と全く同じ感覚を共有しようというのだ。どう考えても不可能である(後に再び詳しく述べる)。
共感という語を使用して何も感じない人間は、コミュニケーションというものがそういう大きな制約の上に成り立っていることを理解していないのだろう。でなければ、共感という言葉など怖くて使えないはずである。あるいは自己の感覚の複雑さを理解していれば「全く同じように」などと言えるはずもない(前述のように、感覚の拠り所を100%把握しようとすれば日常生活が破綻する)ことを考えれば、共感の語を使用するのは、自己認識がいかに浅はかであるかをも表していると言えるだろう。
ここで、生じうるもう一つの疑問、つまり「感覚が数値化できても共感はあり得ないのだろうか?」という考えについて書いてみよう。まず結論から言えば、仮に感覚が数値化でき、同じ程度の感覚を味わっていることが客観的にわかったとしても、共感という状態はありえない。例えば痛みを例にとってみよう。同じ年齢の人が同じ痛みを受けたとする。ならばそれは共感可能だろうか?答えは否である。なぜなら、それまでどのような痛みを味わってきたか、言い換えればどのような経験をしてきたかによって同じ痛みでも反応は全く変わるからだ。痛みに慣れていない人は強い反応をするだろうし、逆に痛みに慣れている人は上手くやり過ごす(反応が弱い)だろう。この二人の感覚は同じではない。前者は「死ぬほど痛かった」と言うかもしれないが、後者は「この程度のは大したことはない」と言うかもしれない。要するに、たとえ同じ年齢などで同じ痛みを味わったとしても、経験則の違いから感覚・反応は大きく異なってくるのである。ましてや年齢、体格、生活環境(熱い・寒いなど)が違ってくればなおさらだと言える。このように、仮に数字が同じであることがわかったとしても、それによって共感することはできない。研究などで得られる数字も状況次第でいくらでも意味合いが変わってくるように、感覚の数値もそれが生じる状況や母体次第でいくらでも意味合いが変わってしまうのだということを念頭に置く必要があるだろう。
以上長々と述べてきたが、共感という状態に到るには
①相手がその感覚を100%正確に理解しつつ
②その内容を100%正確に説明をしてくれ、
③続いてこちらが相手の感覚を100%正確に把握し、
④100%正確に理解されている自らの感覚と照合して
⑤全く同じだと定義する。その上、
⑥両者が全く同じ経験則をもっており、
⑦その結果全く同じ感じ方をする二人でなくてはならない
という七つのプロセスが必要なのだ。この①~⑦を満たす状況など果たして存在するのだろうか?双子が不思議なシンクロをする話なども聞くし、百歩譲って皆無ではないとしておこう。とはいえ明らかに、「奇跡」とでも呼ぶべき稀な、まことに稀な状況だと言えるだろう(※)。
ゆえに、私は共感という言葉を使うべきではないと考えるが、重要なのは言葉狩りではなくむしろ、そういう幻想に満ちた言葉を無批判に使う社会の精神性を知ることであると考えている。それについては、機会があれば改めて述べてみたい。
※
あるいはそんな面倒なプロセスを経ずに共感が可能だと言う人がいるかもしれない。その人は、おそらく何かしらの超越的な力を持っているのだろう。今すぐにでも生霊を降ろすシャーマンか教祖にでもなった方がいい。もう少しわかりやすく言い換えよう。
共感とは奇跡的な状況においてのみ起こりうるものであり、それが日常において可能だと信じるのはまったくの狂信に他ならない
まず読者の中には、批判の対象になっているのが共感そのものなのか、それとも「共感」という語を誤って使う人々なのか、という疑問を抱いた人がいるかもしれない。前者では共感という言葉にそもそも問題があり、後者ではその使い方に問題があるわけだから、確かにこれは明示しておく必要がある。そこで広辞苑で<共感>の項を見ると、以下のような説明がなされている。
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(sympathyの訳語)他人の体験する感情や心的状態、あるいは人の主張などを、自分も全く同じように感じたり理解したりすること。同感。「―を覚える」「―を呼ぶ」⇒感情移入
*************************************************(強調部分は筆者による)
この語義を見るに、共感の語は正しく使われており、ゆえに私の批判は共感の語そのものであると言って差し支えない。以下、この共感の語義に拠りつつ批判を展開していこう(辞書的意味と人々が使用する共感の語義にズレがないと判明したので、以降は共感を全てカッコなしで表記する)。
引用したように共感は「全く同じように感じたり理解したりすること」と書かれているが、こんな状態が果たしてありえるだろうか?「~に行きたい」「…が嫌い」「―はおもしろかった」など色々な感覚や欲求の中で我々は生きているのだが、「なぜその場所へ今行きたいのか」「どうしてその人が嫌いなのか」「どうしてその本がおもしろいと思うのか」といった感覚・欲求の源泉を理解していないばかりか、理解しようとさえしていないように思える。「おもしろい」一つとっても、主人公の性格、物語の展開、話のプロットなど様々な「おもしろい」があり、おそらくはその複雑な組み合わせによって「おもしろい」は成立している。しかしながら、ほとんどの人はその事実を深く考えないだろうし、あるいは知ってはいても、それを考察しようとはしない(というのも日常は感覚の連続だからで、一つ一つにかかずらっていては生活が成立しないからだ。人間の自らの感覚を100%理解することはそもそも不可能なのである)。その中で、同じくその作品を「おもしろい」と言う人がいる。その「おもしろい」は全く同じだと言えるのか?言えるはずがないのだ。自分の感覚の拠り所すら理解していないのだから。要するに共感とは、「同じようなことを言っているから同じことを感じたはずだ」あるいは「見た感じ似たような反応だから同じことを感じているに違いない」という勝手な決め付けに過ぎないのである。繰り返すが、自分の感覚を100%理解している人間はこの世に存在しない。相手もまた然りである。その中で、相手と全く同じ感覚を共有しようというのだ。どう考えても不可能である(後に再び詳しく述べる)。
共感という語を使用して何も感じない人間は、コミュニケーションというものがそういう大きな制約の上に成り立っていることを理解していないのだろう。でなければ、共感という言葉など怖くて使えないはずである。あるいは自己の感覚の複雑さを理解していれば「全く同じように」などと言えるはずもない(前述のように、感覚の拠り所を100%把握しようとすれば日常生活が破綻する)ことを考えれば、共感の語を使用するのは、自己認識がいかに浅はかであるかをも表していると言えるだろう。
ここで、生じうるもう一つの疑問、つまり「感覚が数値化できても共感はあり得ないのだろうか?」という考えについて書いてみよう。まず結論から言えば、仮に感覚が数値化でき、同じ程度の感覚を味わっていることが客観的にわかったとしても、共感という状態はありえない。例えば痛みを例にとってみよう。同じ年齢の人が同じ痛みを受けたとする。ならばそれは共感可能だろうか?答えは否である。なぜなら、それまでどのような痛みを味わってきたか、言い換えればどのような経験をしてきたかによって同じ痛みでも反応は全く変わるからだ。痛みに慣れていない人は強い反応をするだろうし、逆に痛みに慣れている人は上手くやり過ごす(反応が弱い)だろう。この二人の感覚は同じではない。前者は「死ぬほど痛かった」と言うかもしれないが、後者は「この程度のは大したことはない」と言うかもしれない。要するに、たとえ同じ年齢などで同じ痛みを味わったとしても、経験則の違いから感覚・反応は大きく異なってくるのである。ましてや年齢、体格、生活環境(熱い・寒いなど)が違ってくればなおさらだと言える。このように、仮に数字が同じであることがわかったとしても、それによって共感することはできない。研究などで得られる数字も状況次第でいくらでも意味合いが変わってくるように、感覚の数値もそれが生じる状況や母体次第でいくらでも意味合いが変わってしまうのだということを念頭に置く必要があるだろう。
以上長々と述べてきたが、共感という状態に到るには
①相手がその感覚を100%正確に理解しつつ
②その内容を100%正確に説明をしてくれ、
③続いてこちらが相手の感覚を100%正確に把握し、
④100%正確に理解されている自らの感覚と照合して
⑤全く同じだと定義する。その上、
⑥両者が全く同じ経験則をもっており、
⑦その結果全く同じ感じ方をする二人でなくてはならない
という七つのプロセスが必要なのだ。この①~⑦を満たす状況など果たして存在するのだろうか?双子が不思議なシンクロをする話なども聞くし、百歩譲って皆無ではないとしておこう。とはいえ明らかに、「奇跡」とでも呼ぶべき稀な、まことに稀な状況だと言えるだろう(※)。
ゆえに、私は共感という言葉を使うべきではないと考えるが、重要なのは言葉狩りではなくむしろ、そういう幻想に満ちた言葉を無批判に使う社会の精神性を知ることであると考えている。それについては、機会があれば改めて述べてみたい。
※
あるいはそんな面倒なプロセスを経ずに共感が可能だと言う人がいるかもしれない。その人は、おそらく何かしらの超越的な力を持っているのだろう。今すぐにでも生霊を降ろすシャーマンか教祖にでもなった方がいい。もう少しわかりやすく言い換えよう。
共感とは奇跡的な状況においてのみ起こりうるものであり、それが日常において可能だと信じるのはまったくの狂信に他ならない
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