エ・アロール? part.2

2012-02-02 18:46:13 | 生活

悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て
此大をはからむとす。ホレーショの哲學竟に何等の
オーソリチィーを價するものぞ。萬有の
眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の
不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀は
大なる樂觀に一致するを。

これは華厳の滝で自殺した藤村操の有名な「巖頭之感」で、その内容は当時の知識人などに大きな影響を与えたと言われる。ところで、自殺の原因は「巌頭~」の内容から厭世観(哲学的苦悩)にあると思われていたが、自殺の前に女にフラれていたことが明らかになり、そっちが原因ではないかという説もあったらしい。

 

さて、私はここから自殺の原因を究明する気は全くない。そんなもんは本人以外にはわかんねーし、下手すりゃ本人にさえよくわかっていなかったと思うからだ(「明日、君がいない」)。ただ、もし仮に失恋が大きな原因だったならば、それを世界認識の問題として表現するのは、自意識の問題を世界の問題へと短絡する「セカイ系」そのものであると言える(これは、藤村の遺書の受け取られ方も含めての話)。突拍子もなく聞こえるかもしれないが、このような特徴は例えば大正時代にテロを敢行した人物たちの日記にも表れているし、また「罪と罰」におけるラスコーリニコフの行為やそれへの周囲の反応も同じ視点で見ることもできる(ただし、これを「同時代的な特徴」と言えるまでの知識はないし、「近代社会の孤独」と直ちに一般化できるものか疑問でもある)。なお、先の大震災では自らの病とそれを結びつけた御仁がいたそうだが、それも同類である(極私的な事柄が無関連な自然現象と短絡されるw)。

 

もちろん、個人の世界認識が主観を除いて成立しえないことは言うまでもない(「物自体」は認識不可能=絶対的客観の不在)。それがほとんど自明の前提となっている今日においては、全体性をベタに希求することは単なる喜劇にしかならない。それは「ムーたち」の規理野視組が典型だが、このブログでも「この道、わが旅」という記事を書いたことがあるし、バルザックの「絶対の探求」や三島のユッキーの最期とかを思い出してもいいだろう(バルタザールも三島も、色々考えに考えた末ああなったわけである)。しかしそういった「客観の不在」は、先の段落で述べたような「自意識→世界」の短絡と同一視するべきではないだろう(間主観性=他者の意識の欠落→ノイズの排除羊水の世界)。

 

さて、話は変わるが昨年末の忘年会で・・・っと時間に余裕がなくなってきたので、ここから先はまた別の機会に。

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