多様な価値観の存在という不可逆な現実がある以上、「調和」が重要だと言う場合には、その中身を明確にした上で妥当性を精査しなければならない。さもないと、「空気」が支配権を握り続け、「周りは地雷だらけ」という状況とそれのもたらす生きにくさは永遠に変わらないどころかむしろ悪化していくに違いない。
ここで重要なのは、たとえば「昔は調和していたように見えるかもしれないけど、自分の考えと周囲の意見がかみ合わないこともあったし、その時自分の意見を抑えていただけだ」といった反論が単なる回顧であって有効な意見にはなりえない、ということだ。なぜなら、そういう物言いは自分の意見を主張するか否かという単なる個人(主義)のレベルでしか問題を考えておらず、社会状況自体が当時とは全く変化していることを完全に見落としているからだ。
では、例えば価値観の多様化に抗って統一的な価値観を打ち立て、それに従わせる方向に行けばいいのか?それは三つの観点から不可能であるように思える。
(1)インターネットなどのグローバルメディアの存在
(2)成熟社会化になることで、「幸福」の基準は多様化せざるをえない
(3)伝統的共同体はすでに消滅ないし消滅しかかっている
統一的な価値観を打ち立て人々がそれに従う状況を作りたいのなら、上記の三つの障害(問題点)をクリアする他ないが、それはつまり前近代の社会に戻ることを意味する。果たして、そのような不便さを我慢し、自由をなげうってまでかつてのような社会状況と人間関係に戻ることを日本国民が肯じるだろうか?そう考えれば、他国との外交関係といったことを云々するまでもなく、その不可能性が理解されることだろう。
今述べた二つの反論は、結局のところ昔に戻すことの不可能性(コスト)を考慮していないがゆえに、全く無効であると言う他ない。おそらくこれは、どちらも価値観の多様化を個人の問題としてしか見ておらず、社会変動[=大きな枠組みの変化]と密接に関係していることを考慮していないのが原因だろう(違和感を短絡的に対症療法へ結びつけてるだけ→根本的な解決にならない)。
以上のことから、価値観の多様化は不可逆であることが改めて確認されたように思う。では、価値観の多様化と「調和」はどのような関係になるのだろうか?日本で言われる「調和」なるものは、しばしばその中身が「とにかく波風を立てずに他人と仲良くしていくこと」という内容であるように思える(これは「空気を読む」という表現を挙げれば十分だろう)。この思想そのものは、長所もあれば短所もある。しかし、価値観がますます多様化しているという実態と共存するのが難しいことは容易に理解されるところだろう。というのも、前提(価値観)の違う相手が増え、かつその差異自体も拡大していく以上、コミュニケーションをしようとすれば、ますます頻繁に相手の価値観に抵触することは避けられない。これは個人のエゴや個人主義といったミニマムな問題ではなく、全く悪気のない一言が相手の思わぬ反発を生み出すのだ(少し古い話だが、身元不明のイラン人の火葬とイラン政府の反発などを想起したい)。
つまり「調和」を重視すると、いや重視するがゆえに(=「空気を読め」)、コミュニケーションはますます困難となり、希薄化せざるをえない。その状況の息苦しさの表象こそがキャラ的人間関係であり、そして「地雷」という比喩なのである。「昔から、ある場において人が(ムードメーカーや嫌われ役など)何らかの役割を担ったり演じたりしてきた」という人がいるかもしれない。なるほどそれは事実だろう。しかし、それと同じ基準で今日のコミュニケーション様式を計ろうとするのは、その困難さと必死さを見落としてしまうだけのズレた行為だ。むしろ、そのような鈍感さで状況を放置してきたがゆえに、これほど深刻な息苦しさとディスコミュニケーションが蔓延する(と感じられる)社会になったのではないか?
話を戻そう。
現在、コミュニケーション方法とその実態がかつてなく乖離してしまっている。それは、前者のディシプリンが実態にそぐわない旧態依然としたものだからだ。こうなってしまうと、その基準を守ろうとする人たちは「地雷」に怯え、むしろそんなものが嘘っぱちでクソ喰らえだと理解できる人間の方が「空気」を利用してしぶとく生き残るという、あべこべな状況が生まれる(余談だが、「空気が」読めるのはスキルの問題で状況把握能力と評価しうるが、「空気しか」読めないのは単なる閉塞した日和見主義である)。しかも、「調和」という規範が実態からますます乖離していけば、その規範に全く価値を置かず極端な方向に走る人間が増えると思われるが、そうするとますます多くの「少年A」が量産され、それに怯えた人々はいっそう「調和」の重要性を語る(or得意の忘却癖で「なかったことにする」)、という負のスパイラルが生じることは容易に予想されるわけである(※)。
ここで真に恐るべきは、「みんな仲良くしようよ」と「調和」の重要性を語る人たちはおそらく善意に基づいてそう主張しており、にもかかわらずそれが生きにくさとカタストロフの原因となっていることに他ならない(しかも、そのような思考様式が「お上」だけでなく、私たち一人一人にも根を下ろしているところが非常に厄介である)。そのことを自覚し、耐用年数の過ぎた枠組みを脱していく必要がある、というと抽象的だが、まずは「仲良くする」とか「調和」とは何なのか?この価値観の多様化した社会においてそれはどのようなものでなければならないのか?といった自分たちを縛る枠組みを明確にし、それを完全に変えるのは無理にしても、テコ入れをしていく必要がある。もしそれが「日本的伝統によって不可能だ」などと言うのなら、「地雷」という名のコミュニケーションコストは上がり続け、そこに背を向ける「社会不適合者」が増えていくのをただ見守るしかなくなるだろう。ま、枠組みのレベルから考える行為がそれこそ「日本的伝統」ゆえ徹底的に不可能なら、それもまた必然的な結末というところか。
ところで、このような状況を考えれば、「共感」などというファジーな言葉を持ち出して他者とのコミュニケーションの可能性を論じる行為はむしろ事態を悪化させかねないことに思い到るのではないだろうか。仮にその人が「価値観が違っても本来わかり合えるはずだから」という意図で「共感」を称揚していたとしても、それはただ「空気」(=同調圧力)を強化して終わりである。「みんな仲良くすべき」「波風を立てないことが重要」という根本のディシプリンを変え、「違っていて当然」「それゆえに齟齬や衝突も決して避けられない⇔空気」「その上でどう共存していくか」という具合に差異の承認およびコミュニケーションの失敗・齟齬の肯定をしなければ、状況の変化は望めないだろう。
ここで重要なのは、たとえば「昔は調和していたように見えるかもしれないけど、自分の考えと周囲の意見がかみ合わないこともあったし、その時自分の意見を抑えていただけだ」といった反論が単なる回顧であって有効な意見にはなりえない、ということだ。なぜなら、そういう物言いは自分の意見を主張するか否かという単なる個人(主義)のレベルでしか問題を考えておらず、社会状況自体が当時とは全く変化していることを完全に見落としているからだ。
では、例えば価値観の多様化に抗って統一的な価値観を打ち立て、それに従わせる方向に行けばいいのか?それは三つの観点から不可能であるように思える。
(1)インターネットなどのグローバルメディアの存在
(2)成熟社会化になることで、「幸福」の基準は多様化せざるをえない
(3)伝統的共同体はすでに消滅ないし消滅しかかっている
統一的な価値観を打ち立て人々がそれに従う状況を作りたいのなら、上記の三つの障害(問題点)をクリアする他ないが、それはつまり前近代の社会に戻ることを意味する。果たして、そのような不便さを我慢し、自由をなげうってまでかつてのような社会状況と人間関係に戻ることを日本国民が肯じるだろうか?そう考えれば、他国との外交関係といったことを云々するまでもなく、その不可能性が理解されることだろう。
今述べた二つの反論は、結局のところ昔に戻すことの不可能性(コスト)を考慮していないがゆえに、全く無効であると言う他ない。おそらくこれは、どちらも価値観の多様化を個人の問題としてしか見ておらず、社会変動[=大きな枠組みの変化]と密接に関係していることを考慮していないのが原因だろう(違和感を短絡的に対症療法へ結びつけてるだけ→根本的な解決にならない)。
以上のことから、価値観の多様化は不可逆であることが改めて確認されたように思う。では、価値観の多様化と「調和」はどのような関係になるのだろうか?日本で言われる「調和」なるものは、しばしばその中身が「とにかく波風を立てずに他人と仲良くしていくこと」という内容であるように思える(これは「空気を読む」という表現を挙げれば十分だろう)。この思想そのものは、長所もあれば短所もある。しかし、価値観がますます多様化しているという実態と共存するのが難しいことは容易に理解されるところだろう。というのも、前提(価値観)の違う相手が増え、かつその差異自体も拡大していく以上、コミュニケーションをしようとすれば、ますます頻繁に相手の価値観に抵触することは避けられない。これは個人のエゴや個人主義といったミニマムな問題ではなく、全く悪気のない一言が相手の思わぬ反発を生み出すのだ(少し古い話だが、身元不明のイラン人の火葬とイラン政府の反発などを想起したい)。
つまり「調和」を重視すると、いや重視するがゆえに(=「空気を読め」)、コミュニケーションはますます困難となり、希薄化せざるをえない。その状況の息苦しさの表象こそがキャラ的人間関係であり、そして「地雷」という比喩なのである。「昔から、ある場において人が(ムードメーカーや嫌われ役など)何らかの役割を担ったり演じたりしてきた」という人がいるかもしれない。なるほどそれは事実だろう。しかし、それと同じ基準で今日のコミュニケーション様式を計ろうとするのは、その困難さと必死さを見落としてしまうだけのズレた行為だ。むしろ、そのような鈍感さで状況を放置してきたがゆえに、これほど深刻な息苦しさとディスコミュニケーションが蔓延する(と感じられる)社会になったのではないか?
話を戻そう。
現在、コミュニケーション方法とその実態がかつてなく乖離してしまっている。それは、前者のディシプリンが実態にそぐわない旧態依然としたものだからだ。こうなってしまうと、その基準を守ろうとする人たちは「地雷」に怯え、むしろそんなものが嘘っぱちでクソ喰らえだと理解できる人間の方が「空気」を利用してしぶとく生き残るという、あべこべな状況が生まれる(余談だが、「空気が」読めるのはスキルの問題で状況把握能力と評価しうるが、「空気しか」読めないのは単なる閉塞した日和見主義である)。しかも、「調和」という規範が実態からますます乖離していけば、その規範に全く価値を置かず極端な方向に走る人間が増えると思われるが、そうするとますます多くの「少年A」が量産され、それに怯えた人々はいっそう「調和」の重要性を語る(or得意の忘却癖で「なかったことにする」)、という負のスパイラルが生じることは容易に予想されるわけである(※)。
ここで真に恐るべきは、「みんな仲良くしようよ」と「調和」の重要性を語る人たちはおそらく善意に基づいてそう主張しており、にもかかわらずそれが生きにくさとカタストロフの原因となっていることに他ならない(しかも、そのような思考様式が「お上」だけでなく、私たち一人一人にも根を下ろしているところが非常に厄介である)。そのことを自覚し、耐用年数の過ぎた枠組みを脱していく必要がある、というと抽象的だが、まずは「仲良くする」とか「調和」とは何なのか?この価値観の多様化した社会においてそれはどのようなものでなければならないのか?といった自分たちを縛る枠組みを明確にし、それを完全に変えるのは無理にしても、テコ入れをしていく必要がある。もしそれが「日本的伝統によって不可能だ」などと言うのなら、「地雷」という名のコミュニケーションコストは上がり続け、そこに背を向ける「社会不適合者」が増えていくのをただ見守るしかなくなるだろう。ま、枠組みのレベルから考える行為がそれこそ「日本的伝統」ゆえ徹底的に不可能なら、それもまた必然的な結末というところか。
ところで、このような状況を考えれば、「共感」などというファジーな言葉を持ち出して他者とのコミュニケーションの可能性を論じる行為はむしろ事態を悪化させかねないことに思い到るのではないだろうか。仮にその人が「価値観が違っても本来わかり合えるはずだから」という意図で「共感」を称揚していたとしても、それはただ「空気」(=同調圧力)を強化して終わりである。「みんな仲良くすべき」「波風を立てないことが重要」という根本のディシプリンを変え、「違っていて当然」「それゆえに齟齬や衝突も決して避けられない⇔空気」「その上でどう共存していくか」という具合に差異の承認およびコミュニケーションの失敗・齟齬の肯定をしなければ、状況の変化は望めないだろう。
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