弥冨中の刺殺事件が報道されて少し時間が経過した。とはいえ、まだいろいろと新しい情報が出てくる可能性があるので、この事件自体への考察や論評をここでするつもりはない。
じゃあ何でわざわざ記事を用意したかというと、最初に大要「いじめられていたので復讐した」という逮捕された少年の供述が出てきた時、「自分で復讐をやり遂げたのは素晴らしい」という反応が少なからず出ていて、これが興味深いと思ったからだ(ある意味条件反射的なそのコメントにこそ「本音」は表れていると思うので)。
この動画では(まあ当然というか)二人ともそういった意見をたしなめるような論調であり、同害復讐法の成立背景や交換可能性含め至極穏当な話をしているが、ここで注意しなければならないのは、「なぜそんなにも短絡的な意見が出てくるのか」ではないだろうか。
そこには、もちろん法の概念や法社会学といった素養の欠落を指摘することは容易なのだが、それ以上に、「強い被害者感情」や、「社会や社会秩序に対する不信」を見て取ることができるように思う。そしてさらにその背景には、多様化・複雑化とともに進む分断、にもかかわらず要求されるノーマライゼーション、短絡的な自己責任論(社会的な包摂ではなく自分で何とかしろと喚きちらす人間が多い)といったものがもたらす、抑圧・鬱屈・不安があるのではないだろうか。
だから、システムの周知であったり、システム的不備の共有と改善といった方向ではなく、「やられそうなら殺る」という結論に飛躍してしまう、という構造である。そうなると、複雑化・多様化を前提として共生の作法を模索するどころか、常に怯えながら戦闘態勢を取るような振る舞いになるのはある種の必然であり、こういった前提の緩和なくして「正論」で諭しても相手を変えることはできないだろう(これは社会的資本を失い自己の存在する意味を感じなくなった「無敵の人」に、「人を殺してはいけない」と説いても効果がないのと同じである。なお、注意すべきは日本が他の国に比べて治安が悪いとか極端に悪くなったということはない。にもかかわらずそれが実態以上に大きな恐怖と不安が人々に植え付けられているのは、つまるところずっと前にも言われた「安心社会から信頼社会へ」の移行に失敗しているからだろう)。
ともあれ、今回の事件で少なくともこのことは確実に言えそうだ。すなわち、理性的で知識もある大人でさえしばしばトラブルが生じるのに、どうして閉鎖空間で子供にはそれが生じないとか、あるいはそれをステークホルダーである学校が対処しきれるなどと思うのか、と(前に掲載した「ルールチェンジ大富豪」の記事も参照)。旧来の学校の在り方は、個人の努力の問題ではなくシステム的にもはや不可能なのは明白である、と述べつつこの稿を終えたい。
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