ひぐらしのなくころに 業:第12話の感想

2020-12-24 12:40:40 | ひぐらし

もう13話が放送されようというのに、ようやく第12話を見終わりましたよと。このタイミングになった理由は、正直興味が薄れてきているからだが(ぉ)、今回も気になる点はあるので、第13話が放送される前に一度記事にしておきたい。

 

まず率直に言って、皆殺し編と似ている、というか似過ぎている。これまでも確かに旧ひぐらしと類似点はあったわけだが、それでも例えば鬼騙し編は鬼隠し編+罪滅し編というように複合的な内容で、またそれゆえに梨花はそれを鬼隠し編とみなして行動した結果、レナの暴走を止められなかったのであった(梨花の内面描写は出てきていないが、そう推測するのが妥当だろう)。

 

しかし今回は、妙な表現で恐縮だが、あまりに「皆殺し編そのまま」なのだ。ここまでの「ひぐらし 業」の展開からしても、微細な違和感の描写にはきちんと意味が付与されていたから、この「酷似性」にも何らかの意図があると思われる。それが何なのかを現段階で明確にするのは難しいが(仮説に照らせば、やはり「あの人物」が世界の創世ないし歪みに関わっている可能性が疑われる、というところか)、それゆえにこそ皆殺し編からの変化は記録しておくに越したことは無い、とは言えそうである。

 

【旧ひぐらし、あるいはこれまでの「ひぐらし 業」と違う点】

 

・鷹野の協力に違和感のある梨花。そしてその描写が意味すること。

旧ひぐらしからのリピーターにとっては、これは当然の反応である。しかし、この場面をわざわざ描写するのは、梨花が「祭囃し編以前の惨劇を忘れたわけじゃない」ことを暗示しているのだろう。これは前にも書いたが、祟騙し編の梨花は皆殺し編と全く同じ展開なのに、その光景を見たかのような反応をしており、第11話の感想でも述べたように「ワンチャンこれ忘れてんじゃね?」とさえ思えたが、そうではないことを示す意図と思われる。

まあ前回の第11話はそれまでの演出が嘘のようにキャラクターの演技が大変わざとらしい回だったので、そのあたり含めて完全に掌の上ってことなんだろうな。

梨花の心情を想像するに、綿騙し編では不安になっている圭一に本性を顕わにする程度にはイラついてるはずなので、祟騙し編で「ああ、これ一番あかんパターンやんけ(´;ω;`)」となっていたところ、皆殺し編と類似の展開が発動し、かつこれまでの二編と違ってその流れ通りに話が進んでるため、これ私が知ってる世界や・・・これならイケるで(なぜか関西弁)!なテンションだと思われる(いわゆる「勝ち確」的なヤツね)。赤坂衛というSSRが雛見沢に来る(=祭囃し編)のは期待できないことを思えば、まあ最高に近いシチュエーションではあろうな。

とはいえ記憶はあるんで「鷹野、テメーはダメだ」と言いたいが、この団結の流れの中で自分が水を差すような発言をするリスクを考慮して、ああいう反応をしたんだろう。

まあもう少し突っ込んで言えば、鬼騙し編も綿騙し編も、「旧ひぐらし」で惨劇が始まる「時報」とさえ呼ばれていた富竹の死が出てこないことから(共通して「行方不明」)、「ひぐらし 業」の世界は鷹野の強靭な意思が存在しない可能性がある=ゲームの勝利条件が異なる可能性がある、という推測は何度も繰り返し述べている通りだ。

ここから想像をたくましくするなら、第12話は「戦うべき相手は誰なのか?」という話(それが実は「特定の人」ではないという気づきも含む)だったわけだが、これを古出梨花に応用すると、彼女の戦うべき相手が(「ひぐらし 業」の世界では)実は鷹野三四ではない、ということまで暗示しているのかもしれない(ただし、これを山狗や「東京」という組織レベルまで拡大してよいのかは現状だと情報が少なすぎて何とも言えない)。

 

・祟騙し編の長さが変化

鬼騙し編、綿騙し編に続く3回目にして、4話で終わらない構成となっている。綿流しの祭りが先延ばしになったわけでも、梨花の生存期間が長くなったわけでもないので、これがどのような意味・必然性を持っているのかすぐには見定めがたいが、それでもこれまで推測してきたことを踏まえれば、キーパーソンの可能性が高い沙都子が自宅軟禁に近いような状態になっていることで、「世界の法則が乱れている」可能性はある。

逆に言えば、この見立てが正しいとすると、みなの団結の結果沙都子が解放された暁には、ハッピーエンドではなく世界のカタストロフが惹起される可能性があり、そこから初めて真の「ひぐらし 業」が始まるのかもしれない(聞くところによれば曲も変わるらしいし)。こう考えると、やたらテンションが高くなっている梨花があえて皆殺し編そのままに描かれ続けている理由も納得はいく。つまりそれは、「上げて落とす」ための演出なのではないだろうか。

 

 

【皆殺し編と同じ点、あるいはテーマ性の件】 ※推理というよりテーマ性についての話なんで飛ばしてもらってもOK

 

・「空気」が支配する構造

この件については、皆殺し編関連でもずっと前に言及したし、何なら先の大戦における日本の動きを始めとして他の記事でも繰り返し取り上げているため、ここでは詳しく述べない(ちなみに閉鎖空間による相互監視的病理を免れえないからこそ、水を差せる存在=マレビトとしての前原圭一が重要になる、などと言う事もできるだろう)。

ただ、日常生活や会社でのやり取りを始め、「世間をお騒がせした」という謎の謝罪、あるいはネットの炎上や「不謹慎厨」、「自粛警察」でも可視化されているように、時代やインフラが変わっても同じような構造が繰り返されていることは今さら指摘するまでもないことだろう(それこそ「セケン」って誰のことを指してるんだ?という話で、今回のひぐらしで圭一が言っていた話そのまんまである。まあその根源には抑圧による鬱屈とともに「不安」があるとするなら、これはナチスドイツが跳梁跋扈した時の状況と極めて類似している)。

ゆえに、物語としては同じ話が繰り返されているので新鮮味がないが、一方でこういうテーマが今なお重要な意味を持つ程度っているとは思う。

それほど、社会の変化に基づいた共生の作法を身に着けられない人間が少なくないのである(これは先ごろ映画化された「愛しのアイリーン」で描かれた構造が、原作から20年以上を経た今も「技能実習制度」という形の搾取として日本で見られる、というのと似ている)。

まあ言うて、そういう際に常に例示されてきた欧米的近代社会ってヤツも、すでに分裂の中でその建前をかなぐり捨てかねない方向には向かっているため、これは日本だけの問題じゃあないんだけどね(より正確に言えば、今日のような現象が前景化する前、すでに近代社会はナチスドイツのような形でその建前をかなぐり捨てた「実績」があり、この構造を検証したのがフロムであり、アドルノ&ホルクハイマーであり、アーレントだったわけだ)。

なお、ネットの炎上から自粛警察にかけての事例は、言わば「負の斥力」や「出る杭は打たれる」と表現・分析した方がより適切だと思うが(あるいは嫉妬・執着的エートス、かな)、実はこれこそVtuberとアバター普及の件で書こうと思っていたテーマなので、その記事でまた触れたいと思う(要は、技術が進歩したとしても、人間の行動原理が変わらなければ意味がない、ってこと。そういや昔、「日本人てスカウターをつけたら敵の強さじゃなくて空気を測り始めるんじゃね?w」とネタにしてる動画を取り上げたことがあるが、そこまで角が立たない程度のネタにして言えば、まあそういうことである)。

 

・園崎家当主の「パフォーマンス」とその必要性

さっきの話と一部矛盾するように聞こえるかもしれないが、巨大な組織やシステムにおいて、パフォーマンスが必要な場面はいくらでも存在するのも事実だ。例えばだが、自分の所属する業界があるシステムの導入に向けて動いているが、経営者のあなたはそのシステムの安定性について非常に懐疑的であり、導入を慎重に待っているとしよう(会社という形での例え話は信長と謙信でもやったので、よければそちらもどうぞ)。あなたが仮に社長でその判断に根拠も自信もあったとしても、それなりに情報を知っている社員はなぜ導入に動かないのかと不安・不満を吐露するだろう。この時において、自分の判断をどういう形で表明するのが妥当か?あるいはしない方がよいのか?という判断を迫られることになる。

というのも、そのような自社の判断を社員は社長が無能であるからなどと判断して離反したり、会社全体のモチベーションが停滞する可能性があるからだ(仮に数か月後、そのシステムに大きな問題が発見されて導入を待った自社の判断が正しかったと証明されたとしても、そういうことは起こりうる)。

あるいはこの喩えがわかりにくいのであれば、戦争外交を連想してもよいだろう。しばしば言われることだが、「何も言わない」のは「受け入れた」のと同じとみなされることは少なくない(そして内側から批判され、政権などの求心力が低下する)。ゆえに、それが多少大げさに見えても「怒ったフリ」が必要なケースは確実に存在するのだ(まあ「プロレス」に喩えた方がわかりやすいかも)。

こういったリアルポリティクスなどを踏まえれば、園崎家当主の振る舞いを「ツンデレ」などと表現するのは容易いが、事はそう単純な話ではないと言えるだろう。

とはいえ、そういう外交的ポーズといくつかのミスが積み重なった結果、一次大戦の如く雪崩を打つように凄惨な殺し合いが惹起したという経験を人類は何度もしてきたのも事実だ。

ちなみに、過去の事例から合理的思考や戦略的思考は何かを学ぶこと、かつそのように合理的・戦略的振る舞いをしているつもりなのに所与の条件を見誤ったり「合成の誤謬」的なことが起こって思わぬ惨劇を招きうると知ること・・・こういったものが(歴史用語ではなく)歴史を学ぶ価値だと私は思うのである。


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