フラグメント109:「沙耶の唄」に見る排除、包摂、没入

2011-03-11 17:00:00 | フラグメント

昨日のフラグメントではひぐらしを元に「いい人」と境界線の曖昧さや逆説の話をしたが、今回の覚書はそれを踏まえた「沙耶の唄」関連が多い。具体的には<アーキテクチャの活用>、<表現形式の裏表>、<沙耶と君望~>の三つが該当するのだが、詳しい話は「日本的想像力の未来」でするつもりなので予備的に触れるにとどめる。ここでは、(作者自身の)狙い通りの反応をさせる表現形式の選択(=主人公主観と第三者視点)を問題にしているわけだが、端的に言えばそのことに作者が全く無頓着なばかりか市場分析もろくすっぽできてないので「こいつほんまにアホやなあw」という話。とはいえ、ここに見られる無戦略性(ナイーブさ)それ自体は、様々なことを考える上で非常に参考になる。

 

たとえば作者の虚淵玄は設定資料集のインタビューで宗教戦争などを取り上げつつ狂気の話をしているのだが、その割に沙耶を異物と見て何ら疑っていないし、また沙耶を恋愛の対象として見る(見てしまう)プレイヤーの反応に素直に戸惑いを覚えている。言いかえると、排除の狂気を取りざたしているにもかかわらず、包摂(の構造)に対して極めて鈍感なのである(原作をプレイした人からは宗教戦争と沙耶の存在を同列に扱えるのかと反論が出るかもしれないが、たとえばキリスト教徒たちは「非キリスト教徒は人間に非ず」という理由付けで「新大陸」の人々を虐殺していったことなどを想起したい)。作者は高い位置から人間の狂気を見下ろしているような発言をしているが、主人公主観の形式が本来ありえないような「感情移入」を可能にした(してしまった)のはなぜなのか&どういうことなのかといった点にすら意識が及んでいない。これまた別の言い方をすれば、いかにして人間の党派性意識の操作は可能か、いかにして人間が対象に没入していくかという問題に無理解であるということだ(個人・組織への没入がそれへの批判者への激烈な対抗者になることは容易に想像できるところだろう)。

 

以上のように、宗教戦争などを取り上げて狂気云々というのであれば、その前提となって然るべき排除、包摂、そして没入の構造を作者が全く理解できていないことは明白である。まあそういう様を見ていると、「宗教と思索」や「ヘタレ、埋没、凡庸」でも書いたように、「で、お前は何なの?、何を知っているの?」と言いたくなるし、また作者の言説のような上っ面だけのクリシェがいかにもそれらしいものとして流通していることが非常に問題だと思う・・・とか何とか。蛇足ながら付け加えておくと、沙耶や郁紀の側こそが正しいなどとその立場を特権化するのは、環境保護においてマラリア蚊やツェツェバエが対象から外れてしまう(=人間の恣意的な行いにすぎない)といった現実を忘れた全くの偽善である。ま、これは正当性をマジョリティの側からマイノリティの側に移しただけ=単なる転倒で基本的な構造は変わっていないと言えば十分だろう。

 

っと普通の記事なみに長くなっちまったが、<トン・ヌラの法則>は境界線でも書いた交換可能性、記号性をネタにしたもの。<23だけ~>はもやしもん限定版の表紙がゴスロリ女だったんで、(すでにその巻を持っているにもかかわらず)買い足そうとしたけど踏みとどまったぜ!という勝利宣言(笑)だが、迷った時点で負けじゃね?という話だwちなみに最後の「なにぃ!?」はKOFの社w

 

<アーキテクチャーの活用>
あれアニメや漫画・映画でやっても、違和感は覚えるだけではまり込みはしないよね。だから、郁紀に引き付けるのは相当工夫が必要になるし、経験依存度も高くなる。だけど恋愛ADVあるいはサウンドノベルでは主人公主観が不自然だと思われない上に主人公への没入度が高いから、感覚的に強要することができる。つまり、理性的に考えれば沙耶の側を支持するべきではないのは「わかる」が感覚的には…葛藤。あのね、ある感情や思想を批判するのはとても簡単なんだけど、それがいかなるものかを経験しかつそれがそれであると気付くことはとても難しいんだよ。

 

<トン・ヌラの法則>
「女+ちんこ=ふたなり」であるとき、「ふたなり-まんこ=男の娘・ショタ」が成り立つ。

 

<表現形式の裏表>
どんな作品でも出来事や情景、心情を追体験させようとする点では同じじゃない?他者性を埋め込んで突き放す作品もあるよ。感覚の追体験、経験の強要の度合と表現。テキストと画像・音・声が同時に。ハリウッド映画とテキストがセット。普通なら飽きるところを維持。没入を可能にする形式→沙耶の戦略性、君望への反発→思い通りに動かせない、行動原理がまるで違う。表現形式にそぐわない、と批判するのは理解できる。沙耶の唄はその形式にテーマがマッチしていたが故に予想以上の効果を上げ、君望は合わないが故に反発された。だが演出意図も無視でキャラへの反発のみ垂流→埋没

 

<23だけ梶川池田>
限定版七巻の誘惑に耐えた。いや、悩んだ時点で負けやろ。なにぃ!?

 

<沙耶と君望、ひぐらし、うみねこ>
沙耶…言葉だけならクリシェ。気付かせる。そうならざるをえない、映像的・視点的演出があればこそ葛藤が生まれ、考える余地ができる。人類にとって望ましい結末がどちらかはわかる。でも沙耶に「感情移入」してるからどちらか一方に振れ切らない。陳腐なテーマを輝かせるのに境界線の曖昧さを言葉以外で刻み付けることが不可欠。異物への親和性を利用。より小さくは「萌え」の利用。作者はその利点を切り捨てるようなことを言っている(沙耶は異物発言)。だからバカなんだよ。よくまとまった作品ですねで終了。祟殺しの殺人。承認の問題。

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