ようやく昨日最新話(7話)に追いついたので、一度感想というか思い付きを列挙しときますよと。一度見た限りでは、あまりこれといって印象的な場面がないのだが、メモをとり一度立ち止まって考えると、実は大きな変化となりうる要素が散見されるため油断できない・・・と最初の下書きでは記したのだが、この話はようできとりますなあ。
鬼騙し編も「ひぐらし 業」の最初ということで「?」や「!?」が多々あったのだが、これを初見の人も、リピーター(という表現が正しいのかわからんが)でも別の視点で楽しむことができるような演出になっていた(実際、リピーター視点でレナを信頼した圭一視点で鬼隠し編最後の惨劇を思い出すと、少し印象が違ったものになるかもしれない)。
今回の綿騙し編も、綿流し編がそうであったように、基本的には初見の人もリピーターも、スムーズに見れる内容になっている。これは鬼騙し編と比べ、状況を的確に説明してくれる詩音が近くにいること、鷹野と接近することで雛見沢の成り立ちや見られ方について知れるという展開のため、「わからないことによるストレスや恐怖」が比較的少ないからでもある(「鬼騙し編がサスペンス要素が強いのに対し、綿騙し編はスリラー的色合いが目立つ」と表現してもよい。なお、そうして特性を持っているため、綿流し編・目明し編はリアリズムに寄っており、その怖さは鬼隠し編と違って見えている脅威に追い詰められることと、残虐描写によるものが目立つ)。
というわけで割とテンポよく見れるのが綿騙し編なのだが、しかし綿流し編との微細な違いをピックアップしていくと、「いやその部分が変化してるって実は大きな差異を生み出すんじゃね?」という案件が非常に多く、リピーターにとっても全く油断できない内容となっている(ということを踏まえると、7話における梨花の「アレ」は、視聴者サイド的にはむしろ逆と捉えるべきなんじゃないかと思うが、それは後述する)。
というわけで、以下、各話の感想。
****以下感想****
【第五話】
・またもや日付強調
鬼騙し編が6/10スタートなので、今回の6/12はそれと異なる。ただ、これはひぐらし無印時点からのことなので、今さらヒントにはならない。むしろこの日付の強調からすると、EDでカレンダーをやたらめくっている描写がある理由が気になってくるくらいか。→初見組にとってはループを疑わせる描写
・梨花のアドバイスで人形が魅音へ
鬼騙し編と同じで、カタストロフに到るフラグ破壊。梨花がかなり積極的にハッピーエンドに向けて奔走していることがうかがえる。→初見組にとっては別に何も感じられないが、リピーターにとっては梨花のスタンスを再確認できる場面
・鬼騙し編の「リバーシブル」および「解釈違い」からすると、詩音と魅音の入れ替わりが今回はない可能性あり
→圭一への態度からすると、これは入れ替わりがありそうですなあ(ニヤニヤ)
・しかし綿流し編の魅音の破壊力スゲーわ。まあワイの好きなキャラは鷹野さんだけど。アレ?何か喉がかゆくなってきた気が・・・→どーでもいいけど、今や鷹野さんより10歳以上も年上になっちまったのかと思うと...( = =) トオイメになるわw
・レナの「表面的に見えているものと本当は違う」発言
これは綿流し編にもあった発言だねえ。
→初見組は鬼騙し編のレナの豹変を連想するだろう。リピーターにとっては何のヒントにもならんぞなもしって話だが、わざわざ同じ発言を繰り返させて「あーはいはい例のヤツね」と油断させといて、実は大きな変化を被っている人物がいる可能性はあるので、注意して見ていく必要あり。
【第6話】
・共同体の成員の敵は共同体全体の敵(詩音たちに助けられる圭一)
こういったコミュニティ意識というかコミュニタリズムって重要だよな。それは「ムラ社会的なものの方が現代社会より素晴らしい」とか、そういうものに回帰すべきなんて愚かしい話ではなく(共同体感覚にまつわる最もわかりやすい例は、『喧嘩両成敗の誕生』で扱われる中世日本の異常とも思える名誉感情や報復感情、そして郷質や国質などのシステムであろう)、そのような社会的・精神的土壌がなければ、そもそも「弱者救済」や「再配分」にしてからが「なぜ私がその人たちを助けねばならないのか」ということを税制以外のロジックで納得させることが原理的に不可能になるからだ(ちなみにこれは「リベラルナショナリズム」と呼ばれる)。これはタックスヘイブンのような例を挙げるだけでも思い半ばに過ぎるだろう(※以下あれこれ書いたんですが、長いんで末尾に移動しました)。
・詩音が(綿流し編に比べて)可愛く描かれすぎやない?
まあ「順調」にいけばこの後反転するんだろうけど。
・鷹野の演技がわざとらしすぎない?(怪しさを強調しすぎ)
まあ特別な意図があるのかまではわからんし、単純に考え過ぎかもしれんけど。ちなみにワイはミステリアスでエロいおねいさんは大好きです(脳死)
【第7話】
・詩音が祭具殿で「足音」(これは綿流し編にも目明し編にも存在していた)を怖がっている描写なし
鬼騙し編における羽入の「自分は残滓にすぎない」的発言と整合する。あるいは少なくとも、詩音に症候群が発症していない可能性が高い。これはぬいぐるみ事件が起こっていないことからすれば当然とも言える。これまでの世界観からすると、悟史の件で症候群の契機が埋め込まれた詩音は、ぬいぐるみ事件で症候群を再発させ、祭具殿侵入後にそれが爆発し、凶行を重ねることになるのであった。
とすると、やっぱりこの綿騙し編では詩音が綿流し・目明しでやったような行動に到る必然性を欠いてることにならないか?鬼隠し編の記憶+梨花のフォローによって圭一の暴走は防げた鬼騙し編を連想させる(まあレナが壊れてしまったため結局惨劇は起きてしまったのだが)。確か皆殺し編で詩音が魅音に自分の綿流し編や目明し編の記憶を耳打ちする描写があったはずで、すると詩音にも記憶の継承がされている可能性が高く、それとトリガーを回避した梨花フォローで今回は凶行に到る要件が揃っていないのではないか?
なお、羽入の変化を踏まえると、綿騙し編におけるオヤシロ様自体の描写が綿流し編・目明し編と異なっているかどうか確認した方がよい(→まだできてない)。
・圭一の発言を聞いて落ち込む梨花
これはもちろんダブルミーニングでしょうな。つまり、他の人には失敗したのを落ち込んでいるように見えて慰められるわけだけど、ここで梨花は「ああ、私が殺されるフラグが立ってしまった」と思っているわけだ。
・軽トラを奪って逃走する富竹と鷹野
このような描写は記憶の限り無印・解・礼では一度も登場しない(知っている限り、読者応募の二次創作でもないはず)。とすると、最も容易に想像できるのは、これが圭一と電話しているシーンの詩音が嘘をついてることを示唆してるのではないか、ということだ。でもそれって読者向けアピールとしてはわかるけど、詩音に物語中でそう行動する必然性がない=何のメリットもなくない??
仮にこの行動が実際にあったとすると、なおのこと理解できない。というのも富竹・鷹野の殺害は祭具殿侵入という「お墨付き」を用意した上で(解の描写からすると鷹野は素で見て見たかった側面もあるようだが)、入江の陰謀として処理されるべきものなはずで、わざわざそんな目立つ行為をする理由がわからない(入江が一緒にいることを目撃させるならともかくとして)。ただ、鬼騙し編でも富竹の自転車と鷹野の車が駐車場に放置されていたという描写がわざわざあり、これも記憶の限りでは鬼隠し編その他にない要素のはず。
そこまで踏まえると、ちょっとこの件はよく考えた方がよさそうだ。
・村長がいなくなるタイミングが綿流し編&目明し編より一日早い
これも気になる変化。というのも、少なくとも目明し編ではお魎をアクシデンタルに殺してしまった詩音が、口実をつけて村長を呼び出して彼を監禁し、最終的に亡き者にする展開なのだが、ここで魅音(詩音)の発言と村長の行動が食い違うことで圭一が魅音を疑うのは(「目」の演出含めて)山場中の山場だったからだ。そこも踏まえると、詩音が連続怪死&失踪事件の真相を明らかにしようとした時に村長=御三家の一角である公由が狙われるのは、多少の食い違いが生じても必然的な展開であるとはいえ、この日付の変化を「微細」とは評価しがたい。無難な発想をしたら、今回は公由がそのまま園崎家にいたため、わざわざ別日で呼び出す必要がなく、そのままスタンガンの餌食になって監禁されてるって展開なんだけど、これは詩音の描写変化とあわせて重要なピースではないか。
・梨花の圭一に対する対応が綿流し編とも鬼騙し編とも対照的
描写的には白眉のシーンのはずだが、梨花の心境を考えればそりゃそうでしょうね、という感じで見てましたよと。前回は圭一をフォローすりゃレナ(と沙都子も?)が暴走して結局惨劇は回避できなかったし、今回もわざわざ圭一をフォローしてぬいぐるみを魅音に渡させたのに、事の重大さを知りもしない「猫」たちはまんまと祭具殿侵入というフラグを立て、結局惨劇の回避はできないと外ならぬ百年の魔女だからこそ看破できてしまったのだから(まあ後述もするけど祭具殿云々はあくまでそれらしい理由であって、正しくは富竹が入江に謀殺されたと思しき死に方をすることが、犯人たちにとって「予定調和」のトリガーなのだけど)。
まあ綿流し編・目明し編は梨花=女王感染者が死んだ後に雛見沢の住人が暴走しないことがわかって鷹野の計画が潰える話ではあるので、あくまで被害規模だけで言えば一番「マシ」とも言える展開なのだが、(少なくともベルンカステルやラムダデルタのような存在になっていないと思しき)古手梨花はその世界で自分が死んだ先のことを知りようもないはずだし、部活メンバーと一緒に昭和58年の惨劇を生き延びることが梨花のハッピーエンド条件であるため、そらやさぐれて脅しに近い投げやり発言もしますわいや(苦笑)。
まあ少なくとも富竹と鷹野が消えた(正確に言うと、前述の通り、富竹が喉を掻き毟って死んだ=入江が疑われる状況が成立した)時点で梨花が生存する可能性は絶望的になるはずなので、綿騙し編の世界で梨花は生き延びることを諦めたって暗示なんだろう(そして次の世界で生存を模索する、と)。
だからこの綿騙し編自体は「予定調和」として破滅に向っていくのだろうが、ただ綿流し編的なるものをリフレーンするにしては微細ながらもちょいちょい重要な変化(ぬいぐるみ事件がない・「足音」の不在・富竹&鷹野の逃走方法が斬新[?]・村長の失踪が早い)が生じているように見受けられるので、これがどう第8話に収斂するのか注目していきたいところだ。
・・・とここまで書いたところでちょっと待てよと。
「富竹の死体が出ていない」ってそれクッソ程重要な情報じゃあないですかぁぁぁ!!!
リピーターの中にはご存知の方もいるだろうが、富竹の死は「時報」と半ばネタ扱いされていたほど惨劇の始まりとして固定されている事件だ(なぜ富竹が死ぬのかという背景は前述の通り)。これがない時点で、この世界はもう明らかにおかしい(前回の鬼騙し編でも死亡は明言されていないため同じ現象が生じている可能性あり)。ここで少しまとめると、
1.詩音にトリガーがない(ぬいぐるみ事件なし・「足音」描写なし)
2.富竹・鷹野が古手神社から離れた方法が違う
3.村長が行方不明になるタイミングが違う
4.富竹の死体が見つかっていない
もう違和感しかないでしょこれ。綿流し編と同じようにサクサク話進めながら、しれっとトンデモナイ爆弾をぶっこんでくるねえ。
この要素を踏まえると、梨花の豹変を目くらましにしつつ、その実世界は古手梨花の予想と全く違う方向に進んでいる可能性が示唆されていると考えるべきなのではないか?これで私が思いつくのは、言うまでもなく古手梨花の「予言」である。あれが暇潰し編で出てきた当初ループの暗示とか梨花の退屈しのぎだとか色々議論になったものだが、一件暗示的な内容に見えて、実は相当正確に事態を描写したものであった(北条夫妻のことを「不幸な事故」と表現したのはその典型)。そこからすると、このオカルティックな描写部分こそ、むしろ精査すべき箇所であるように思えるし、もっと言えば梨花の予測は(綿流し編や目明し編と極めて類似しているように見えて重大な部分が異なるという意味で)多分当たっていない。
いやそもそも、鬼騙し編で羽入が梨花と2話冒頭でやり取りしている件からして、「これまでのひぐらしのなく頃にと同じ世界構造だと思って推理すると痛い目に遭うぞ」という暗示にすら見えるわけで、この綿騙し編もどうやらそういう視点で推理した方がよさそうだ。
一応富竹の殺害については、皆殺し編の描写からすると「交渉」の余地があるものであり、そこで鷹野を説得した富竹が駆け落ち(?)したというような推論もできなくはないが、現状では完全に憶測の域を出ないので、ここらはまた別の機会に考えてみることとしたい。
【コミュニタリズムやリベラルナショナリズム云々の続き】
まああえて図式的に書くなら、国家的なるもの(というか戦前的なるもの、かな)を否定的に扱うことに血道を上げていた左翼的立場の人々は、弱者救済や再配分を重視する傾向が強いのであるが、国家的なるものを徒に否定しながら再配分を重視するなんて、自分の足元に穴を掘るみたいな行為だって気づかなかったんだろうか(かと言って国家より小さな共同体を重視するような言説が広く見られた、ということも私の知る限りは存在しない。まあ国家が再配分を重視するという社会民主主義が国民の納得という要件なしに成立すると牧歌的に信じられていた、ということも関係しているのだろう)?
良くも悪くも共同体の解体が急速に進み、弱者救済が権利というより「甘え」の問題として処理されがちな風土を持っていた日本において、コミュニティのよりよい存続のためにどういった政策が最も合理的かという「アソシエーション」の感覚ではなく、単に甘えているのが許せない的な「自力救済」・「自己責任論」が声高に叫ばれるのも故なきことではないと私は考えている(システムにベストなものなどなく、ベターな選択が存在するだけであり、その意味で共同体が解体したならば、それによる便益もある一方で、そこから生じるリスクについて目を向け手当てをすべきであった。それを怠ったツケを今まさに払わされてるというわけだし、これからもそうだろう)。
ついでに言えば、それを回復する精神的基盤もシステム思考も持たない・持とうとしない(涵養される場が基本的に存在しない)社会で、しばしば私が述べている形で社会的分断(これは日本に限らずアメリカを始めとする先進国で進行中である)がさらに促進し、かつ人口オーナス(生産年齢人口の減少)などの形で経済的衰退が進めば、「欲しがりません勝つまでは」的我慢を要求する風潮が強まることは容易に想像できる。そしてそのような状況を、コロナ禍も含めて私は「地獄の始まり」と称したわけである。
・・・というのは一般的な話だが、まあひぐらしってこういうことをテーマにも組み込んでいるので、書いてみましたよと。
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