うーむ、おもしろい。やはり重要なのは、「右」とか「左」とか「保守」とか「革新」とかそういうことじゃなく、戦略的思考ができるかどうかだよね。まあわかりやすく言ってしまえば、チキンホークもお花畑サヨクも等しくクソであって、前者はただ自分が気持ちよくなりたいからオナニーの代わりに威勢のいい言説を垂れ流しており、後者は他人を思いやることで自分がいい人になったと錯覚して勝手に心を痛める救いがたいアホにすぎない。とはいえここに「いかに戦わずして中国を分裂・衰退させるか」といったことや、貧困を放置するとどのような実害・リスクが社会に生じるか(自分自身にとっていかに不利益になるか)といった議論をしても、ドリーマー達を覚醒させるどころかむしろ、そういうリアリズム的な妥協を我々はしないのだ、と彼らの集団妄想を強化せしめることすらありえるのが実に面倒なところだ。「日本教の社会学」を読みつつ、そう思う今日この頃である(そう言えば上野千鶴子の「等しく貧しくなろう」という記事も批判されてるようですなあ。それが「水を差すな」的感情に基づくものじゃないのなら、少しでも戦略的な改良案を考えたり提示するのが批判者の誠実さではないかと思う。たとえば、移民の受け入れが現実的じゃないという認識はその通りとして、人工知能の開発に莫大な金銭を投入して、機械化の促進による生産性の向上と人手不足の向上、そして汎用型AIの開発推進による第四次産業革命でパイオニアになることを目指す。そのための教育改革プランは・・・といった具合に。ただ、少なくとも私は、上野の発言はある程度説得力があるものだと考える。なぜなら、この国が結婚制度や教育制度など含め本気で将来を憂いてシステムを改造しようとしてるようには到底思えないからだ。「伝統」がどうのこうのと言いながら、その実ライナスの毛布のような「自明性へのしがみつき」を正当化しているだけで、ずるずると奈落に向かっているわけである。また人手不足の問題も、就職氷河期にあった今の30・40代を今さら正規雇用するわけにもいかず、将来の生活保障はどうなる?というのが取りざたされるが、そんなものはずっと前からわかりきっていたことなんじゃないのかと。結局人の入れ替えが効果的にできなかったことが、少子化高齢化による人手不足と壮年の生活苦境という二重苦を社会にもたらしているわけで、さらにこの人手不足に女性の社会進出が絡むと今の状況では少子化の加速という点で三重苦である。結局これって近視眼的政策を政府・共同体・企業がやってきたツケ以外の何物でもないと思うのだがどうだろうか?)
おっと閑話休題。
伊藤佑靖については紹介されている著作を読み、様々な動画での発言も聞き、賛同できない部分も正直ちょいちょいある(注)。とはいえ根底にある、目標を達成するための戦略的思考であるとか、それを身につけるためにどのようなカリキュラムが必要なのか、といった話には大いに共鳴するところがある(防災訓練の時に、非常事態であるがゆえのリミッターを外した判断をするのではなく、日常の枠の範囲内でしかモノを考えず、そこで「頑張った」ことが大事だとする姿勢を批判する発言などは、その典型である)。繰り返しになるが、「右」とか「左」とか「リベラル」とか「保守」とかそういうポジションは前提としてどうでもいいので、まず現状がどのようになっていて、どのような問題が生じていて、それを解決するためにどのような方策がありえるのかを整理・思考することが先で、価値判断はその後である。この動画を見て、また伊藤佑靖の一連の発言を見て、改めてそう思った次第である。
(注)
たとえば、伊藤の「法を無視して後で血祭りに上げられようと、異常事態下での『正しい』判断をする」という趣旨の発言は、マックス=ウェーバーの著作にも表れ、そこではルーティンをこなしていく官僚と対置される政治家の仕事として言及されている。伊藤の発言はともすれば個人の覚悟の問題であるように受け取れるものだが、これは単にその立場にある人に要求して済むものではなく、それに対する社会的認知(≠全肯定)と、後の歴史的検証が必要であろう(でなければそういうエートスを作り出すのは無理で、ただのマンパワー頼りとなる)。
さて、もう一つ賛同できない(正確には価値観が全く違う)のは天皇に関して。伊藤は著作の中で関東大震災の時の天皇の勅諭の話を出しているが、あれを見て私なら、感銘を受けるより「なるほど日本人はこういうエートスで動くわけだから、日本人を効率よく統治するには~な方法が有効だ」というメタ視点というかGHQ的に考える。というのも、私にはいわゆる「天皇」と名指される存在に対して別に忠誠心などはないからだ。誤解のないように言っておくと、「天皇」という立場にいる人間でも、頭脳明晰な者もいれば無能な者もいるし、高潔な者もいれば下劣な者もいるだろう。それは「皇帝」、「教皇」、「大統領」、「社長」などどれでも同じことだ。「長年続いてきた一族だから特殊なのだ」と言う人もいるだろうが、だったらあなたは天皇と同時に孔子一族も崇拝するのかね?と私は皮肉交じりに聞くだけだ。「天皇」と付くだけでクソもミソもなく尊敬する(or軽蔑する)・・・これほど人を馬鹿にした認識もないというものだ。
とはいえ、そのような存在が日本という国の統治に役立つというのなら活用すべきだろう(=天皇機関説的発想)、と考える程度の「公共的」視点はある(そのような観点から、私は執務に差しさわりがあるなら辞めるべきだと考える。まあ法律の問題については、政府が都合のいい時に首を挿げ替える危険を排除しておいた方がいいという危惧は理解できるが)。
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