高校英語と「文型」の学習

2007-04-29 23:58:14 | ことば関連
以前高校世界史と地図について書いた。今回は高校英語について少し述べてみたい。


高校英語と一口に言っても色々あるが、最初に習う「文型」(SVOとかSVCってやつ)についてイヤーな記憶を持っている人も多いのではないか(あるいは全く忘れてしまったか)?俺について言えば、習った当初から「何で文型判断なんてやるのか」と疑問だった。「文型というのは五つあります。この動詞は~文型をとって…さあ覚えろ」とかいう教師の言葉を聞きながら、普通に訳していけばいいのに、何でわざわざSとかVとか考えるのかと頭をひねったものだ。おそらく俺と同じことを思いながら、春の睡魔と戯れる一年生は大量にいたし、また現在もいるのではないかと思う。


では、文型は何のために学ぶのだろうか?「指導要領にあるから」?アホか!?
文型学習の意義は、ただ日本語を当てはめる「照合」式の英語(中学英語)から脱却し、英語の形や配列に注目する=英語の本質的なルールを学ぶ英語(高校英語)へのイントロダクションという点にあったはずだ。一体どれほどの教師がそういう位置づけを理解しているのか、俺には大いに疑問である。


あるいはこう反論する人がいるかもしれない。「そんな本質的・抽象的なことを話しても、どうせ生徒は理解してくれない」、と。もしそれが教師の言葉なら、「オイオイ、それでもお前ら教育のプロかよ?」と言いたい。確かに、英語の本質に関わることで…とか話しても、生徒は船を漕ぎ始めるだけだろう。だったら、それがどのように使えるかを話してやればいいんじゃない?例えば「SVCの文型を受動態にすることはできない」とか「SVOOとわかればVの意味はある程度推測できる」…などなど(「受け渡す」「与える」イメージ)。


これは小手先のテクニックではない。英語の形(本質)を理解しているからこそ可能な思考・推測であり、むしろこのようなルールに基づいて未知のものを推測したり複雑な構造を解き明かしたりすることこそ高校英語で学ぶべき論理的思考力なのである。そして英語の形を理解するには、文型の学習が必要不可欠なのであった。つまり文型を学ぶことは英語の本質の一面を学ぶ行為に他ならず、かつ(英語を通して)論理的思考力を身につけるための第一歩となるのである。そのことを理解せずに文型を教えたり、あるいはそれを避けて通るならば、英語嫌いとスカスカの人間が大量生産されることだろう。


文型の授業、それはよくよく考えて行うべきものであると言えるだろう。

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