「親ガチャ」を嘆き続けても失った時間は戻らないということと、「親ガチャ」と呼ばれる格差が厳然と存在し、それがそこかしこに影響しているというのは同時に真である(「『身の丈』から抜けられない教育格差を放置してはいけない」や「『共有できていないという事実』を共有できていない、これを分断という」などを参照)。
そして「機会の平等」というものを理解しないばかりか、「どんな環境でも成功している人はいる」と確率論を無視した(ただ忍耐や自助努力を求めるような)自己責任論を垂れ流すのは、社会に存する問題点への手当てを不合理な理由で阻害する=公益性を欠いているという点において有害な行為である(なお、「結果の平等」については、共産主義国家の崩壊や「ゆりかごから墓場まで」の政策で行き詰ったイギリスの例からもわかるように、今や採用できないことは明らかだ)。
というわけで、以前書いた「金融義賊」の続きに寄せて自己責任論というものの害悪(その正体はしばしば公共性・公益性なき信条の吐露)について述べてみた次第。
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