おいおい「沙耶の唄」かよw
まあでも、こういう外からの視点で自分たちの社会構造とその不自然さを描き出すってのはよくあるパターンだわな(実際、星新一っぽいなんてコメントも見られる)。これを関して、概念や集団幻想をよりエモーショナルな描き方をすれば、「散歩する侵略者」みたいになる。
なお、こういう展開によくあるケースだが、ミイラ取りがミイラ取りになり、適応していた連中がいつの間にかシステムを下支えする存在になっていたりする(例えば「散歩する侵略者」なら、「家族」などの概念を奪われることで人間側としては根源的なものが欠落し、一方宇宙人側としては、それを取得すればするほど、人間に近づいていく)。
その時、「彼ら」はあくまで人間のフリをしているわけだが、それはもはや他者からすると容易に見分けがつかない。こうして、かかるタイプの描写は「人間性とは何か」という問いを受け手に発することにもなっていく(その時の鍵概念は大体の場合「利他性」で、利己的人間と利他的異形を対置することでより効果的に省察を促すという演出が取られることも多い)。
ちなみに言っておけば、冒頭で述べた沙耶の唄という作品は、外観についての二重性という演出をしつつ、さらにADVという性質を活かして少女のビジュアルや異形の世界への視覚的没入、そして登場人物たちの音声はもちろん、不安を煽る音楽と穏やかなBGMの混在といった聴覚的「洗脳」を通じて、受け手の感覚をハックしにかかる。そしてそれが極めて上手くいった結果が、沙耶の唄に対する「純愛ADV」という評価であろう(作者の期待した反応が一般的であれば、この作品は基本的にホラーとして受け取られたと思われる。そして一部の耐性の強い人間や物好きが、それを半ばネタ的・確信犯的に「これも純愛だろw」と述べるような状況になったのではないか)。
さて、これで話が終わるなら、単なる作品の一類型の解説でしかないが、今日の社会ではもはやこれが現実化しつつある。それはすなわち、昨今のVRによる没入体験で指摘されているが、「それが現実とは異なっているとはわかっていても、そう身体が認知してしまい、そこに強く引きずられる」という状況に他ならない。
これは要するに認知科学の知見などを含めた人間の動物性が曝露されていく現象とも言えるが、このような幻想の仕組み解体と、それを用いた人間のコントロール技術はますます向上していくものと思われる(例えばこの感覚ハックが、急速に発展するChat-GPTと結びつくことは容易に想像できる。コスパ・タイパ重視が進む今日において、コントロール困難な他者との永遠の微調整と、自己の快適な反応のみを返してくれる高性能botのどちらを望むだろうか?なお、「幻想の解体」と言うといかにも抽象的に感じられると思うので、構造主義や『サピエンス全史』なども踏まえた以下の動画を参照されたい)。
そしてこういった技術革新の中、私たちの社会は複雑性・多様性が増す中で分断を深め、近代が自明としてきた「平等」・「理性」・「博愛」といった理念に基づく熟議と共生が困難になってきている。その結果、隣人をもはや同じ人間とみなすことすら難しい(=隣は何をする人ぞ)時代になりつつある(自分がコミュニケーション困難な存在はまさしく「人間の皮」を被った何者かであり、その時冒頭の動画に登場する存在たちと、一体どちらが交流可能なものと見なされるだろうか?)。
こうした「人間の劣化」という視点も含めて取り上げてきた諸作品を見返すと、また違った気付きもあるだろうし、我々が「人間のように思える何者か」とどのように対していくのかはすでに今日的問題となりつつある(以前書いたインセルへの対処などはその一例)、と述べつつこの稿を終えたい。
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