若松島最後の目的地として、西北部の日島に渡った。
そこには中世~近世にかけての石塔群があるためだ。
半ば雑然と石が並べられ、そこにつつましい石塔がいくつか自己主張している様は、歴史遺跡というより賽の河原のような印象を与える。現在のような主権概念も国境線もない時代、この地はマージナルな場所として対馬などと並び倭寇や勘合貿易において重要な役割を担ったが、ここに葬られた人々はその中でそれなりの地位を得た人々のものと考えられる。
一見すると名もなき人々の墓石が並ぶ無味乾燥な景色かもしれないが、その様式の特殊性など含め、村井章介の『中世日本の内と外』で描かれたような本土とはまた違った世界が広がっていた。
中央政府から見ればそこは「辺境」・「周縁」だったかもしれないし、ゆえにこそ切支丹禁制の時代にはアジール的性質を持つこともあったが、大きく外へ開かれていた時代には、琉球と同様に結節点として独自の発展を遂げていたのであった。その意味では、チャンパーやシチリアなどの独自性や歴史的役割の大きさを想起することにも繋がるのではないだろうか(あるいは今日だともはや辺鄙な場所の代名詞のような山陰にある石見銀山が、近世には「ソーマ銀」として大航海時代と世界の一体化の中で大きな存在感を示したことなどを思い出すのも有益だろう)。
地理的にも展示物的にも、日島の遺跡を魅力的な場所としてアピールするのはなかなかにハードルが高いとは感じるが、世界遺産登録の影響にいい形で乗れるきっかけを掴んでほしいなと思った。
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