古文・漢文の授業、「原典を読める力」、実態との乖離

2024-08-02 11:39:38 | ことば関連

西洋哲学史を専門とする木田元の『新人生論ノート』に、こんな一節がある。

「私が遊び好きだと言うと、欺されたような気になる方がおられるかもしれない。たしかに、これまで書いてきた分を読み返してみると、すごいことが書いてある。ギリシア語やラテン語をモノにするには、一日七、八時間、八十日間一日も休まずやらなければならないとか、基本的テキストを読むときは、毎日四、五ページ、休まずに読みつづけねばならないとか。それでは遊ぶ暇なんかないじゃないか。何が遊び好きだ、と。

いや別に嘘をついているわけではない。たしかに、大学に入ってしばらくのあいだ、語学を仕込む期間はこんなふうにやらなければならなかった。だが、語学の習得は自転車に乗る練習のようなもので、練習しているあいだは大変でも、一度乗れるようになってしまえばなんでもない。あとはいつも乗ってさえいればいいのだ。

私は学部(旧制は三年間)の一年目にドイツ語、二年目にギリシア語、三年目にラテン語、大学院の一年目にフランス語と、毎年四月から六月まで八十日間かけて語学を仕込んだ。哲学をやるにはどうしてもこれだけやる必要があるからだ。だが、それだって、毎年八十日間である。それに、私はさんざん廻り道してから大学に入ったので、そのころは勉強するのが楽しくて、いっこう苦にならなかった。」

 

なぜこんな文を唐突に引用したのかというと、中学や高校で原文を読む古典教育が強制される(必修とされる)理由について、「原典史料を読むためだ」といった説明を聞くことがあるのだが、一体それはどんなレベルを想定しているのか?と私はいつも不思議に思うからだ。

 

もちろん、「誰もが木田元のような専門家レベルの読解力を身に着けること」などと言う人はおそらく皆無だろう。しかし一方で、単に逐語訳をする(できる)だけの状態を想定しているのであれば、現代語訳を読めばいい話で、むしろそうすることで(読解)量を増やし、もって作品・テクストを多角的に評価するなど読解の質を向上させる方がよほど有益なのではないか。というか、そういう訓練を徹底することもなしに原文をちまちま強制的に読ませる効果がわからないし、ただの権威主義以上の何なのかをぜひ教えていただきたいところだ(個人の趣味でやるのならどこまでやるかは個人の自由だし、余人のあずかり知らない話だが、事は公教育の問題なのである)。

 

例えば、このブログで何度か取り上げた日本中世史家の清水克行は、『室町社会の騒擾と秩序』のあとがきで、立教大学の学部生の頃、ゼミで史料の解釈を「通りいっぺんの逐語訳」で済ませたところ、藤木久志から「そんな読み方をして、史料を遺してくれた中世の人たちに申し訳ないと思わないのか」と叱られたエピソードを書いている。

 

もちろんここには清水なりの謙遜も相当程度含まれてはいるだろうが、日本史を専門とする大学生がゼミで現代語訳を発表するという段でもこのような状態なのである(念のため言っておくと、これは清水が特別にダメという話ではもちろんなく、学部生の訳出などというのはえてしてこの程度のものだ)。まして、中学生や高校生に時代背景の深い理解や批判的読解の手法を学ばせることもなく、ただ文法や単語を中途半端に教えて原文を読ませることにより、一体どのような「史料読解力」が醸成されることを期待しているというのか?少なくとも私には、全く理解ができないのである(そもそも、すでに触れたように、現代国語の授業にしてからがそのような仕掛けを施されていないのだから、元より無理筋だとも思うのだが)。

 

まあ要するに、「原文史料を読む能力の養成」というのはそれなりに時間と労力を要するものであり、少なくとも現在行われている申し訳程度の中・高の教育で身につくようなものでは到底ない。もし本心からそれを成し遂げられるような教育にしたいと考えているのなら、そもそも人間が教えるのが合理的なのか?ということや、生徒に興味関心を抱かせる仕掛けも含め(なぜ縁もゆかりもない平安時代の文章から始める?)、極めて綿密な準備に基づいた抜本的な改革が必要とされるだろう。逆にそういった落差の認識や変化の必要性を考えることもなく、ただ古典教育を原文で行う目的を「原文史料を読む能力を培うこと」だと主張するだけなら、単なるお題目以外の何物でもないのではないか。

 

ちなみに今述べたような原文を読む古典教育を中高で強制している効果がいかほどかを考えるにあたって、実際どれだけ古典が原文で読まているのか?を考えてみても良いだろう。例えば、日本の歴史で人気がある時代と言えば戦国時代と幕末だが、それを事例として次のように考えてみてもよい。

 

【戦国時代】

1.太田牛一を知っている人間はどのくらいいるか

2.『信長公記』を現代語訳で読んだことのある人間はどのくらいいるか

3.『信長公記』を原文で読んだことのある人間はどのくらいいるか

4.『信長公記』を原文で読み通したことのある人間はどのくらいいるか

 

まず、1の段階でそれなりに減るだろう。有名な武将や戦いは知っているけど、そうでない人物は知らない、という種類の人たちだ(もちろん、それはそれで個人の自由である)。次に2だが、ここでさらに数は急減すると思われる。そもそもこの時代を研究している人間か、よほどの好事家でなければ残らないのではないか。まして、3や4はほぼ研究者に限られるだろう。

 

【幕末】

1.会沢正志斎を知っている人間はどのくらいいるか

2.『新論』を現代語訳で読んだことのある人間はどのくらいいるか

3.『新論』を原文で読んだことのある人間はどのくらいいるか

4.『新論』を原文で読み通したことのある人間はどのくらいいるか

 

1に関して言えば、戦国時代の事例より、該当者が急減するかもしれない。吉田松陰や松下村塾は知っているけど、彼に大きな影響を与えた人物って…??というわけだ。しかしこの会沢は、吉田松陰どころか、著作が密かに回し読みされて当時の尊王攘夷運動や対キリスト教観など諸政策にも大きな影響を及ぼしたのであり、当時の日本の政策や対外観を知る上で決して外すことのできない人物である。だが、その『新論』を読んだことのある人間は、原文はもちろん現代語訳の方でさえかなり限られるのではないだろうか。まして原文で読み通して人間はなおさらである(なお、すでに欧米化が進み、かつ植民地化もされなかった現代日本人の感覚からすると、彼の視点はいささか被害妄想・誇大妄想的に映るかもしれない。しかし、ロシアの南下政策や清で起こっていたアヘン戦争・アロー戦争、あるいはそれへの反発としての仇教運動など当時の国際情勢からすれば、会沢のような視点はアジア諸国でも広く観察された危機意識と言っていいだろう。そういう現在とのギャップを元に「なぜ当時の人々はそのように考えたのだろうか?」と疑問を持って思考を始めるきっかけとしても、会沢の『新論』は有用である)。

 

以上、人気のある二つの時代と、同時代の重要な作者・史料をそれぞれ紹介したわけだが、比較的人口に膾炙しやすい領域においてさえ、原文史料については全くと言っていいほど読まれていないわけである。その他の史料・作品は論じるまでもないだろう。

 

さて、こういった理解が妥当であるとすれば、「原文史料を読めるようにする」ことを目的とした古典教育とその強勢は、端的に言ってその目的をほとんど達成できていないと言わざるをえない。例えば、仮に先の事例における「4」のカテゴリーに属する人間が仮に1%だとすると(まあ日本全体で120万もいるとは思えないのでさらに割合は小さく見積もるべきだが)、それを学校の1学年に当てはめるなら仮に300名で3名程度となり、また1クラスにつき1名もいない計算になる。

 

だとすると、同学年で2~3名程度に関係するかどうかすら怪しい内容を、全員に対して一律に強制する教育の価値とは一体何なのだろうか?と疑義を呈する人間がそれなりの数出てくるのは必定だろうし、それなら冒頭の木田元ではないが、大学で専門課程へと進みたい人間にのみ重厚な量・質ともに充実した語学教育を施せばよろしい、という話になるだろう(そして中・高では、その前提となる時代背景の知識やテクスト読解力そのものの養成に注力すればよい)。

 

なお、このようにして狙いが単なるお題目と化した古典教育が、もはやれテストのためのタスクとなり下がって道具主義的に教えられるようになり、そして道具主義的に教えられるからこそ、テストが終わった途端に忘れ去られ、一体あれは何か意味があったんだろうか、いやない!と評価・否定されるのは極めて必然的なことと言える(こうして、先ほどの『信長公記』や『新論』の話に戻る)。

 

グローバル化や成熟社会化により、そもそも国民国家の尖兵を育成するような近代の教育マインドでは古典教育を維持するのは難しいという点は何度も指摘している通りだが、古典教育の必要論者の人たちにおいては、それが実態としてどのように機能しているかを踏まえた上で、改革なり反対者の説得に危機感をもって当たらないと、その主張の説得性は日々失われていくであろうと述べつつ、この稿を終えたい。


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