コロナウイルス対応について:不安・不信が噴出する社会

2020-03-17 11:04:00 | 生活
 
 
 
 
 
 
今回のコロナウィルス騒動に関する二つの視点の動画を掲載してみた。
 
 
先に断っておくが、私がここで述べたいのはどの情報が正しいとか間違っているとかいう話ではないし、規制のあり方の是非でもない。現象として見える混乱が、これまで述べてきた様々なテーマとどう関わるかという点についてである。
 
 
具体的にはどういうことか。
シュンペーター(とケインズの対立)、日本人の宗教的帰属意識と無宗教、ホイジンガのいう「遊び」と対概念としての「まじめさ」(前者はシュンペーターのイノベーションにも繋がりうる)、AIの発展と社会の変容・崩壊(人々の不全感の促進と対立の激化、加速主義)、陰謀論の感染力、などなど・・・比較的最近書いた記事のいくつかを取り上げてみたが、それらに通底するのは、「不安という行動原理」「情報社会と不完全情報およびサイバーカスケード」「人間理性の脆弱さ」といった要素である。そしてそういった要素は、メディアやSNSなどの形で日々可視化・増幅され続けている。
 
 
今必要なことは、いかに人間は「『合理的判断』から愚かな行為をする生き物であるのか」・「いかに歴史に学ばず己の『合理性』を信じがちであるか」というのをまず認識することからだろう。ちなみにこれは私の個人的信条でもなければ、ここ最近言われ始めたことでもない(ついでに言えば「哲学的」な話でもない)。
 
 
その典型は行動経済学(人間は経済的に非合理な行動を日常的に行う)であり、ハーヴェイロードの前提(政策決定者は優秀であるはずという思い込み・決めつけ)であり、流動性の罠であり、凝集性と集団浅慮であり(日本風に言えば「空気」の醸成であり、またそれに抗えず非合理的な行動を集団でやると言い換えられる)、あるいはリスク・コミュニケーションやクライシス・コミュニケーションである・・・という具合に学術的にも注目され、そこに組み込まれているのだ(ちなみに、これらからわかるように政権担当者だろうがステークホルダーとしてポジショントークをするし、本来知っていて然るべきと感じることを知らないし、自分の専門外についてはアホな判断を平気でする、というのが共有すべき前提となる。そしてだからこそ、権威主義というのはダメなのだ。というのもそれは、「偉い人に従っていれば何とかなる」という歴史的に見れば誤った前提に立っている思考法であり、それを採用するのは無知か不安が背景にあると言っていい。すると当然のように、「自分で情報を取りに行く、情報のクロスチェックをする、自助努力のためにルールを理解する努力や絆を作る努力を日頃からしておく」といった行動が必要であるという話になってくる。ここで始めて自助努力や自己責任の話になるわけだが、それは後程また触れたい)。
 
 
また、そういった学術レベルの話でなくても、ペストや関東大震災におけるデマの拡散とマイノリティ迫害、そして今回のコロナウイルスでもそれを人種差別に繋げた(繋がりかけた)事例は散見されている(つまりもう一つ重要なこととして、今回のゴタゴタを中国や日本といった、ある国の特殊論・特殊事情に落とし込むのは完全に間違っている、ということだ)。
 
 
もっと身近な例と言えばトイレットペーパーの買い占めだが、なるほどそれをデマに乗せられた行動と嗤い・憤るのは簡単である。しかし、そのような「症状」が噴出する背景を考えてみれば、それほど違和感なく理解はできる(だから放置してよいということでは無論ない)。
 
 
というのは、まず人々が大きな「不安」を抱えているということだ(少子化=生産年齢人口の減少、高齢化=社会保障の負担増大etc)。そして共同体の解体により、相互の「不信」に陥っているということだ。また、日本ではやたらと「自己責任」が喧伝される。こういった状況であれば、人は他者を信用せず、また自分が最悪の事態に対応できずに非難・放置されることを恐れるため、たとえその情報が疑わしいと思っていたとしても、念のため多めにトイレットペーパーを購入するという行為に出る。すると、信じた人間もそうだが、それほど信じなかった人間もコミットすることで実際にトイレットペーパーがないという状況が惹起されるわけである(ちなみに冒頭のゆっくり解説で日本政府の政策を非難しているのは、そういう状態になった場合にマルチなチャンネルが用意されていない・してない社会状況に問題があり、そこに無理やり適応させるような法案を通してもイノベーションの可能性がますます失われて「貧すれば鈍する」の状況になるだけではないか、という話である)。
 
 
なお、こういった社会全体を巻き込む現象から改めてわかるのは、「自己責任」を叫んでいれば何かやった気になっている連中は端的に言って愚の骨頂ということである。短絡的な行為でクライシスを生むリスクを減らすためにも、人がそのような行動をするだろうと予測した理性的な人間が「合理的に破滅的行動に加担する」ことを防遏するためにも、攻勢防御として社会全体のリテラシー向上や情報共有の徹底が重要になってくるし、また早いうちから学校教育で扱っていく必要性が極めて高い、と述べつつこの稿を終えたい。

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