フラグメント221:甲子園は誰のため?

2020-03-16 11:34:00 | フラグメント
前半は「今そこにある地獄甲子園」の草稿+α。折しも、ダイヤモンドオンラインで「センバツ中止は、高校球児のためではなく『大人の事情』で決まった」という記事も掲載されたのでちょうどいいかタイミングである。そこで小林信也も指摘しているように、高校野球の大会には様々な利権が絡む。だから甲子園での実施も「今さらやめられない」し、そこでの決定事項についても(記事の推論を支持するなら)球児不在というのも別に今さら驚くに値しないだろう。
 
 
まあ問題があるとすれば、既得権益側は当然正当化のロジックを用意するわけだが、感動ポルノに浸るの大スキーな人たちはそれを鵜呑みにするかそもそもそれをどうでもいいと思ってることであり(その意味では、その人たちは球児を真に応援しているのではなく、そこにある感動を貪っているだけの自己中心的な人々と評価できる)、また自分が違和感を持たないことを正当化しようとしてそれを他のスポーツで一般化したら途端にボロが出るような理屈を平気で生み出してくることに他ならない。
 
 
これは甲子園に限らず様々な政策決定、あるいは会社内での非合理的なガバナンス、ムラ社会の非合理な掟とその温存にも見られることなので、その吟味は色々な点で実りがあると思い以前取り上げた次第である(この点は次の記事で述べたい)。
 
 
なお、後半の韓国のキリスト教の話は韓国旅行に行く前の準備中に書いたもので、最近の「間違いだらけの日本無宗教論」ともつながっている。
 
 
 
〈無題〉 2018/8/7
甲子園は誰のため?
今さらやめられない。
 
いや、たとえば「非合理性の権化」のようにみなされる陸軍すら、兵力差を認識して夜襲や奇襲を選択する程度の戦略性があったことからすれば、それ以下である。
 
物語を消費する人々。おそらく日向にあえて立つ~と同じ。炎天下で頑張る球児をハラハラしながら応援する。そこに同調の快楽とカタルシスを覚えている。もしそうでないのなら、自分が応援しているはずの人たちの現在はもちろん将来すら危険にさらす甲子園球場での大会を、どうして批判もせずに受け入れているのか私には皆目理解できないのだ。よって私には、応援者達が「悪意なき偽善者」の集まりにしか見えない。ちなみに「とにかく成果より頑張っている姿に感動を覚える」、というのならそれはブラック企業的精神と同根だ(それを己らがやりながら、同時に電通や和民を批判しているのならば片腹痛い)。
 
朝目新聞てのがウケる。まあ連中のリベラルな発言など半ばマーケティングと思えば別に不思議ではないが、偽善ここに極まれり、というものだ(まあマスメディア全般を通じて、そのスタンスをリテラルに捉える受け手はそもそもリテラシーがない、てのも確かだが)。
 
不思議なのは、消費者はそれ意識してねーの?てこと。たとえば今の話を受けて、「うるせー俺は感動したいんだ!それがポルノだろうが、監獄だろうが俺の勝手だろ。パンとサーカスを求める権利が俺にはある」と言うのならまだわかる(賛成はしないけど)。全く透徹していないことに呆れかえる他ない。
 
 
〈無題〉 2018/8/7
韓国のキリスト姜。広まりかた。日本の参考にもなる。田舎との切り離し。とはいえ、高齢者の信仰比率が下がっている理由は説明がつかない。

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