ひぐらしのなく頃に:ダムと原発、「空気」の呪縛、リアリズム病

2014-06-17 18:00:56 | ひぐらし

昨日、「うみねこのなく頃に」のgoldenlaughterを紹介した際に

うみねこ第一話(原作)で最も印象に残った曲である。ひぐらしのノドカキムシール(笑)など相手にならない不可解さと残酷さで強烈なインパクトを与えるシーンで使われ、多くのプレイヤーが薄気味悪いと感じたのではないかと思われる。そのような演出もそうだが、「うみねこのなく頃に」を評価する際には前作「ひぐらしのなく頃に」がどのように受容・評価されたかを見ないわけにはいかない・・・とこの後関連した文章を書いてみたら、3000字近くいってしまったので、別の機会に書くこととしたい。

という文を書いた。その「関連した文章」を以下に掲載したいと思う。

 

それ(筆者注:ひぐらしの受容・評価がうみねこにどのような影響を与えたか)は例えば、リアリズムによる批判に対する応答が「フィクションであり実在するはずがない」という明らかに過剰な前置きであり、またしつこいくらいの魔法演出であったりすることなどに象徴される。ただし、このような批判や賞賛を見ていく場合、何が/いかなる理由で/評価できるのか否か、といったことを考える必要がある。たとえば「リアリズム」に関して言うなら、なるほど確かにひぐらしはフィクションであって、現実に存在するに必ずしも縛られる必要はない。それこそ圭一がかめはめ波を打ったっていいのであるwそのような意味においては、理由もなくやたらリアリティを問題にする姿勢はナンセンスと言えるだろう。しかし一方で、ひぐらしが推理という要素で多くの人を惹きつけたのも事実である(「正解率1%」という煽り文句がある以上、これを否定するのは欺瞞としか言いようがない)。ゆえに、「全く現実離れした設定でも問題ないし、それを批判するのはむしろナンセンスだ」といった態度もまた説得力に欠けると言わざるをえない(この点いわゆる「症候群」の位置付けなどは極めて微妙で、設定・世界観としては許容範囲であっても、推理という段になると大いに問題があったりする)。そのような事情が、この作品の評価を実際より錯綜したものにしているように思われる。たとえば、物語としての矛盾や不自然な点への批判を、現実の政治と作品内容との齟齬に関する批判と一緒くたにするといった具合に。現実の政治に対する製作者側の誤った・偏った認識を取り上げて、それをこの作品の政治的な主張に対する距離感や批判へと繋げるのは理解できるし妥当でもあろう。しかしながら、それを物語内容そのものの妥当性や作品全体の是非にまで拡張して評価するのは、それもまた明らかにバランス感覚を欠いた思考態度ではないだろうか(好きか嫌いか、という話ならよくわかるけども)。というのも、そこまで厳密性が重要であるのなら、研究書やノンフィクションを読めばよいと思うからだ(ただし、これは祭囃し編の冒頭で暗示されることだけども、STAP論文の例を出すまでもなく、研究[書]=真実でないことは言うまでもない。ちなみにここでの話が極端ないし飛躍していると感じるのなら、たとえば1968年の「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」という映画で、反抗する若者たち=異形というモチーフで描かれていることを思い出してみるのも有益だろう。そのテーマに引きつけて言えば、作品内でゾンビという存在のリアリズムを事細かに問題にすることに、少なくともそれをファーストプライオリティーとして作品を評価することにどれだけの意味があるのか、疑問には思わないだろうか?)。

 

そういうわけで、繰り返しになるが、現実世界との整合性をことさら問題視するのは、それこそ偏った視点のように思える(その意味で、ひぐらしはプレイヤーにとって一種の鏡の役割を果たすとも言える)。ゆえに私は、事実との照合よりもむしろ、本作が暗に批判している日本が戦争へ到った過程=「空気」の問題に関して、善意から出たがゆえに是とする鬼隠し編ラストへの作中評価=精神主義を取り上げて結局ひぐらしも同類のメンタリティを肯定してしまっているといった批判を行っている(老婆心ながら言っておけば、鬼隠し編ラストの事例はいわゆる「善きサマリア人の法」などとは全く異なる話である)。なお、この問題は現在も全く終わっていない。というのも、私は先日の「美味しんぼ」に関する一連の出来事を思い出すからだ(念のため注記しておくが、「美味しんぼ」の描写が完全に正しいなどと言うつもりは全くない)。そこで描かれた鼻血描写に対して福島県側が遺憾の意を示す、ということ態度自体はまだわかるけれども、それから先の検証に関する話題は全く触れず、というのは単に臭いものに蓋をしただけであるように思える。ましてや、そこに官房長官という立場の人間が出てきて前記の描写を、様々な見解がある=確定していないにもかかわらず、そのような事実はないというのが専門家たちの一致した意見であるかのように言うに至っては、空気>言論の自由というこの国の後進性を改めて痛感する次第である(そしてそのようなノイズ排除の病理を、「the complacent」では書いたわけだ。まあ先ほど挙げた例全てが善意に基づいたものかは大いに疑問の余地のあるところだが)。

 

あるいは例えば定言命法的に殺人という行為を否定しているがゆえに、特に贖罪行為も描かれない悟史が救われるのはテーマ的におかしいとも批判しているのである(念のため言っておくが、私は悟史があの状況で凶行に及んだのを批判できないと私自身は考えているが、ひぐらしは前述のような視点で物語を描いているがゆえにその矛盾を問題視する)。

 

以上のように、ひぐらしの評価が半ば必然的に、しかし半ば不当にリアリズムによって引きずられているのは残念なことであると同時に、これが先のうみねこの冒頭の文言につながっていることは明らかだろう。

 

ところで、少し違う視点として私はひぐらしの評価・受容のされ方がどのように変化したか/しなかったかにも興味がある。たとえば、(少なくとも公式掲示板を見ていた私にはそのように見受けられたのだが)当時多少困惑と冷笑の色合いが強く受け止められた皆殺し編の団結イベントが、3.11以降この話を目にした人にとってはどのように感じられるのか、ということが私にとっては興味深い。というのも原発とダムの件を繋げて考えるのは極めて容易なことであり、たとえば函館市に対する同意も踏まえない再開発の決定と避難計画の作成の義務付けなど、先進国基準で見てデタラメとしか言いようのない日本政府の対応が継続中で、また我が故郷の隣県鹿児島で「要援護者の30キロ避難計画は無理」という話が持ち上がっている、という状況であるからだ。また近隣諸国との緊張の高まりや憲法改正の動きに拍車がかかる今日、この作品で描かれるそれらへの否定的なニュアンスがどのように受け止められるかも非常に興味のわくところである(ただし私は、本作が異常な疑心暗鬼を描いて誇大妄想を批判しているにもかかわらず、結局は陰謀論的思考様式を肯定するような真相であることについて、「メガロマニアは国家陰謀の夢を見るか?」という記事で批判をしていることも注記しておく)

 

またこれは別の話だが、ひぐらしの中では田舎という閉鎖空間での恐怖(これを「まなざしの地獄」と喩えるのは、都市の話ではないが、ある程度妥当であるように思う)が特に鬼隠し編から目明し編までは色濃く描かれている。このような視点は確かに八ツ墓村など古典的なものではある(=単なるクリシェとして処理することもできる)。しかしながら、LINEの「既読」表示とそれがもたらすコミュニケーション(の速度)へのプレッシャーであるとか、あるいは『近頃の若者はなぜダメなのか?』で描かれる「一人で渋谷に行ったのに、クラスの人間がたまたまいてそれをmixiに書かれていた」という事例のもたらす閉塞感・不気味さなどを思えば、実は今日的な(特に)若年層の関係性にも繋げて考えることができるように思う(いわば「日本的」とされてきた「空気」を重視するコミュニケーションの復権とその要因は極めて興味深い現象である。というのは、結局舞台立てさえ整ってしまえば戦後から70年が経とうとしている今でさえ当時と似た現象が起きるわけで、だとすると日本人の行動・思考様式が成長していないことを示す好例となるからだ=LINEやmixiなどのシステムに問題が在るとは必ずしも言えないスカウターで「空気」を読むのが、スカウターという機器のせいではない必ずしもないのと同じようにw)。そのような見地に立つと、ここで描かれる閉鎖空間の恐怖・病理は、単に遠い世界の話(≒ガジェット的)とは言えないだろう。なにせ、ひぐらしが児童虐待やその保護を描いてきたことなどを思えば、現在との連続性について製作者が強い意識をもっていることは容易に理解されるところだしね。

 

という感じで収集がつかなくなりそうなので今回はここまでにしておくが、再度確認しておけばひぐらしに対する評価のされ方はうみねこの特徴にも深く関係している。そしてもう一つ伝えたいのは、ひぐらしという作品の持つ価値は今日損なわれているどころか、むしろ高まってさえきているのではないか、ということである。


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